「夏目漱石」
斎藤兆史『英語達人列伝 II』より

Reading Journal 2nd

『英語達人列伝 II』 斎藤兆史 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第II章 夏目漱石

英語の達人の二人目は、夏目漱石である。第I章の嘉納治五郎は、かなり意外だったが、夏目漱石なら納得である。しかし大文豪の漱石ならば、英語関係の研究もいっぱいあるのかと思ったら、著者によると、川島幸希著『英語教師夏目漱石』ぐらいしかないのだそうだ。っということで読み始める。


ここでも、夏目漱石の生涯と英語の関係を通して追っていく。まず、漱石が英語を初めて習ったのは、意外に遅く二松学舎に入った入学(1881年14歳)の後に兄に手ほどきを受けたのが最初であるという。しかし、兄は癇癪持ちで自分は英語嫌いなので長く続かず、ナショナルの二位くらいで終わった、と後に回想している。しかし、この話で斎藤には腑に落ちない点があるという。

親族間で何か手ほどきが行われる場合、教える側と教わるがお互いに短気を起こしてうまくいかないことが多い。よくありそうな話だと納得してしまいそうになるが、英語の手ほどきという観点から見ると腑に落ちない部分がある。すなわち、両者の相性が悪いわりには、学習進度がいやに早いのである。(抜粋)

斎藤によると「ナショナル(二)」では、初級とは言えない文法事項も出てきて、中学校後半で読むくらいの難易度があるそうだ。

その後、夏目漱石の英語の学習は右肩上りで進んでいった。ここでは、漱石の英文を何個か引用し、その英文が東大の学生の英文と比較して漱石の実力を説明している。
最初の英文は漱石が18歳の時の英作文である。斎藤はこの英文を、東大のトップクラスの学生に匹敵する実力があるといっている。さらに、第一中学校本科(1888年、21歳)に進学した後に書いた英文は、優秀な教師の指導もあり、現代の東大生でもずば抜けたレベルに達していると評価している(この英文は、最新の『漱石全集』第二十六巻(二〇一九年)に掲載されている)。さらに、帝国大学文化大学の英文科で、ジェイムズ・メイン・ディクソンに指導されていたころに書いた『方丈記』の英訳が載っている。これは次章で南方熊楠の英文と比較される。

その漱石は、愛媛尋常中学校(松山)、第五高等学校(熊本)に教師として赴任するし、その後一九〇〇年に英語研究のためイギリスに留学している。ここでも、斎藤は幾つかのエピソードにより、漱石の英語の確かさを検証している。

最後に斎藤は、大作家となったのちの漱石が書いた英語に関する随筆を引いている。(ここがおそらく斎藤が一番言いたいことだと思うので長文を引用する)

ただ、漱石が晩年まで英語の学習と教育への興味を失わなかったことは、「語学養成法」(『學生』一九一一年)と題された随筆からも十分うかがうことができる。その冒頭部で、彼は学生の英語力の急激な低下について次のように論じている。

私が思う所に由ると、英語の力が衰えた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方から云うと当然のことである。何故かと云うに、吾々の学問をした時代は総ての普通学は英語で遣らされ、地理、歴史、数学、動植物、その他如何なる学科も皆外国語の教科書で学んだが、吾々より少し以前の人に成ると、答案まで英語で書いたものが多い。・・・・処が「日本」と云う頭を持って、独立した国家という点から考えると、かゝる教育は一種の屈辱で、恰度、英国属国印度と云った感じが起こる。日本の、nationalityは、誰が見ても大切である。英語の知識位と交換出来る筈のものではない。

授業を英語で行えば大学がもっとグローバル化すると信じて疑わない、いまの大学人こそ読んでほしい文章だ。だが、おそらくこれは、英文学と格闘してきた漱石が築き上げた英語との関係性なのではないか。本気で英文学を学ぶけど、精神まで英語に支配されてはなるものかという強い意志が感じられる。(抜粋)

関連図書:川島幸希著『英語教師夏目漱石』、新潮社(新潮選書)、2000年
    :『夏目漱石全集』第二十六巻、岩波書店、2019年

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