『英語達人列伝 II』 斎藤兆史 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第VII章 國弘正雄
英語の達人七人目は、國弘正雄。圀弘は、「同時通訳の神様」と呼ばれている [知ってた]。しかし、会話中心の英語学習でなく、「只管朗読・只管筆写」を推奨している [それも!知ってた]。では、読み始めよう。
國弘正雄は、一九三〇(昭和五)年に東京北区で生まれた。國弘と英語の出会いは、小学校を卒業して中学校に入ってからである。そして、中学校では英語を猛勉強する。國弘の著書『落ちこぼれの英語修行 – 異文化の架け橋をめざして』に、その様子が書かれている。彼は、教科書の各レッスンをひたすら音読したという。少なくとも500回。そして、たまにざら紙が手に入ると、英文をひたすら筆写したそうである。
中学生の國弘は、英語を音読・筆写するだけでなく、使ってみたいと思った。しかし、当時は戦時中である。そこで、彼は、捕虜収容所に出かけて危険を顧みずに話しかけ会話をしている。鳥飼久美子の『通訳者たちの見た戦後史—月面着陸から大学入試まで』には、
この直後、彼は「通じたッ。通じたッ。通じたッ」と叫びながら、家まで帰ったという。このころから彼は英語学習にのめり込んでいくことになる。(抜粋)
とその時の様子が描かれている。
そして、戦後になってからは、進駐軍相手に英語を学習している。しかし、それは、相手を見つけて喋りまくるという方法ではなく、教科書を二冊持って行って、一冊を渡して朗読してもらい。もう一冊に英語の抑揚や区切りを書き込んでいくというものだった。斎藤によると、このような勉強法は江戸時代末期に和蘭通詞が、緊急に英語を学ばなければならなくなった時に取った方法なのだそうだ。そして、斎藤は次のように注意をしている。
観光地などで外国人を捕まえて英語を話す練習をしている英語好きがいるという話を聞きたことがある。だが、そのような学習法によって高度な英語が使えるようになった人を僕は知らない。せいぜいのところ、破調の英語(らしき言語)を臆面もなく話す度胸がつくくらいのものだろう。(抜粋)
旧制中学を卒業した國弘は、翻訳の仕事などをしながら青山学院大学で学んでいる。そして、一九四九年に日米学生交流プログラムのメンバーに選ばれてハワイに行った。そして、その見事な講演を聞いたハワイ大学の学部長の誘いでハワイ大学に編入することになる。奨学金も世話をしてもらったという。
この逸話を読んで、何でもずば抜けてすごい人は、ちゃんと拾ってくれる人がるんだなぁ~。と思った。そこまでやり抜くってのは、相当のことなんですけどね。
ハワイ大学を卒業後の経歴は、それはすごいものである。日本生産性本部のワシントン駐在員となった。そこで、日米交流の様々な場面で同時通訳をすることになり、同時通訳のパイオニアとして活躍する。帰国後は、同時通訳エージェントであるサイマル・インターナショナルの創業にかかわったとともにNHKの「英会話中級講座」の講師を務めた。そして、伝説となっているアポロ11号の月面着陸の中継での同時通訳もしている。そして、同時通訳を引退した後も、三木武夫に見出されて、外務省参与などで政界をささえ、さらには社会党候補して参議院に出馬して国会議員も勤めている。
國弘は、さまざまなメディアを用いて英語教育や英語学習法の普及にも力を入れた。そして、その学習法の中で独特なのが「只管朗読・只管筆写」である。
曹洞宗の座禅は、悟りを得るための瞑想ではない。ただ姿勢を正し、息を整え、そして心を整えて、ただひたすら坐る。國弘の只管朗読、只管筆写も同じである。発音をよくするためとか、単語を覚えるためとか、そういう余計な目的を一切考えず、ただひたすら何度も何度も読む、書き写す。英語の上達は、あくまでもその結果あって、目的ではない。(抜粋)
関連図書:國弘正雄(著)『落ちこぼれの英語修行 – 異文化の架け橋をめざして』、日本英語教育協会、1981年
:鳥飼久美子(著)『通訳者たちの見た戦後史—月面着陸から大学入試まで』、新潮社、2021年
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