『文章のみがき方』 辰濃和男 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
IV 文章修行のために 5 動詞を中心にすえる
「いまは名詞がおおすぎる。そして動詞がすくなすぎる」(長田 弘)(抜粋)
詩人の長田弘は、現代は名詞の時代で、私たちは名詞をひたすら作り使い捨てるが、動詞はほったらかしになっていると言っている。そして長田は、夏目漱石が二〇世紀という未来に向けて、必要なことばとして求めたのは「考えよ。語れ。言え」という動詞だったと言っている。
動詞がだんだんに貧しくなったという長田説に私は賛成します。(抜粋)
そして、著者は動詞が文章に躍動感を与えている例として、村山由佳の『海を抱く』を引用して解説している。
どうしは、海辺の光景を具体化し、動きのあるもの、身近なものにしてくれます。動詞という品詞はなんと頼もしいやつか、ということをこの文章は改めて教えてくれます。(抜粋)
しかし、カタカナ動詞の乱用には注意が必要である。動詞は、日本語の中で寿命の長い語であるが、カタカナ動詞に脅かされている。
外来語に「する」をつけて動詞として使うという風潮がひろがっているからです。ミスする、ゲットする、リスペクトとする、オミットするというカタカナ言葉の動詞も使われています。
同士の外来語化がさらに進めば、日本語の根っこのところが崩れてゆくのではないかという心配があります。(抜粋)
関連図書:
長田弘(著)『感受性の領分』、岩波書店、1993年
夏目漱石(著)『漱石全集(一九)』、岩波書店、1995年
村山由佳(著)『海を抱く』、集英社(集英社文庫)、2003年
大野晋(著)『日本語の起源』、岩波書店(岩波新書)、1957年
IV 文章修行のために 6 低い視点で書く
「ものごとを上からばっかり見ないで、ときには這いつくばって見る。かっこう悪くても視線を低くすると、別の世界が見えてくるんです」(皆越ようせい)(抜粋)
著者は、皆越ようせいの言葉から始める。皆越ようせいは、ミミズ、ダンゴムシ、トビムシなどの土壌動物をとりつづけている写真家である。皆越はよく子どもたちと土壌動物の観察会を行う。腹ばいになって子供たちと土壌静物を観察する。
視線を低くしてはじめて、見えてくるものがあるんです。(抜粋)
アメリカ先住民と交流のあるナンシー・ウッドは、先住民の古老から、白人は大地を眺めるのに決してひざまずこうとしない。と言われた。
上の方から大地を見下ろすことしか知らないものに、大自然のなにがわかるというのだ、と古老は問うているのでしょう。(抜粋)
超ロングセラーの『何でも見てやろう』を書いた小田実は、低い目線でものごとを見続けた人であった。一九六〇年代に小田はインドの路上で寝る。そこにあったのはむき出しの貧困だけでなく、アジアの貧困にたじろぐアジア人の自分の姿であった。
「口先だけの知識人」を嫌った小田は、思い切って視線を低くし、その低い視線の位置から「何でも見てやろう」という旅を、いまもつづけているのです。(抜粋)
最後に著者な、この章のまとめとして次のように語っている。
「人間中心主義」というものがあります。いわゆる「万物の霊長」という見方です。人間はほかのどの生きものよりもえらい。知恵もあり、情もある。自然をどのように改変しようとも、それが人類の幸福のためになるのであれば正しい開発であると主張するひとがいます。人類こそえらい、という立場からものを見ると、どうしてもほかの生きものの命が見えなくなります。生きものの姿は見えても、その生きものが一つ一つの命をもった存在であるという、その命が見えてこない。(抜粋)
関連図書:
辰濃和男(著)「ミミズの世界に魅せられて」、『「私流」を創る』、朝日ソノラマ、2003年
ナンシー・ウッド(著)『今日は死ぬのにもってこいの日』、メルクマール、1995年
小田実(著)『何でも見てやろう』、講談社(講談社文庫)、1979年
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