『文章のみがき方』 辰濃和男 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
IV 文章修行のために 3 感受性を深める
「私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全体の上から真理を感得すること」
「五感を極度に洗練することによって人はさまざまな奇蹟を見ることができるやうに成る」
「五感およびその上に建てられたる第六感以外に人間が安心して信頼すべきものは一つもない」(荻原朔太郎)(抜粋)
著者は、世田谷の生まれでその頃の世田谷はまだ緑が豊かだった。そして自然と人、人と人の結びつける縁側という特異な空間がまだ役割を果たしていた。
卓越した禅僧の山田無文は、若いころに病気で倒れ医者にも見放された。そして療養中に縁側に坐ってぼんやりとしていた。
風が吹く、南天の枝が揺れている。その瞬間、ひらめくものがありました。風は空気が動いて起こるものだ。その空気は、休まずに自分をつつみ、自分を守ってくれている。そうだ、自分は孤独じゃない。大自然の大きな力に抱かれて生きているのだ。そう思うと急に涙が止まらなくなりました。(抜粋)
そして、無文は、いままで生きていたのではなく、大いなるものによって生かされていたということに気づいて、元気が出た。
著者は、意識して五感を解放させる時間を持ち、野性、精気、元気、自然治癒力を蘇らせるために、豊かな自然のなかに身を置くことが大切と説いている。文章修行としても、筆の技を磨くことも大切だが、五感を練る修行に心を配りたいとしている。外界の刺激を受けて磨かれた感性は、やがて清冽な言葉となって涌き出してくる。
また、ここで私たちの「視覚偏重」ということを考えるとして、三宮麻由子の文章を紹介している。三宮は子どものころに視覚を失ったが、語学やピアノを学び百種類の鳥の声を聞き分けるようになった。
見ることに偏り、聴くことをおろそかにしているだけでない、実は見ていないことが多い。そこに、日常的な視覚偏重主義の弊があります。
三宮の文章はその大事なことを教えてくれます。(抜粋)
関連図書:
荻原朔太郎(著)『ちくま日本文学全集・荻原朔太郎』、筑摩書房、1991年
山田無文(著)『自己を見つめる』、禅文化研究所、1982年
レイチェル・カーソン(著)『センス・オブ・ワンダー』、新潮社、1996年
細川俊夫(著)『魂のランドスケープ』、岩波書店、1997年
三宮麻由子(著)『そっと耳を澄ませば』、集英社(集英社文庫)、2007年
IV 文章修行のために 4 「概念」を壊す
「言語と云ふものは案外不自由なものでもあります。のみならず、思想に纏まりをつけると云ふ働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまふと云う缺點があります」(谷崎潤一郎)(抜粋)
このように言って谷崎潤一郎は、言葉があるために害することがあるという危険性について語っている。そして、
結局、「返すゞゝも言語は万能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります」という結論を出しています。(抜粋)
著者はこの言葉を「戒語」として受け止めている。言葉は万能ではないため、眼前の世界を言葉にしてもどうしてもミゾがある。そのことを知りつねに謙虚でなければならない。
著者は、問題はこの「ミゾ」を越える努力をするか、はじめからあきらめてしまうかであるとしている。
ここで、南木佳士の『阿弥陀堂だより』、竹西寛子の『長城の嵐』などの現場間のある文章を引用して、それらの既成の概念を壊したような表現について解説している。
関連図書:
谷崎潤一郎(著)『文章読本』、中央公論新社、1960年
南本佳士(著)『阿弥陀堂だより』、文藝春秋(文春文庫)、2002年
竹西寛子(著)『長城の嵐』、新潮社、1994年
松尾芭蕉(著)『芭蕉俳句集』、岩波書店(岩波文庫)、1970年
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