『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 「水清ければ魚棲まず」 — 統一王朝の出現 1 秦の始皇帝
春秋・戦国時代の混乱期が終わってやっと秦の始皇帝による統一王朝が生れた。今日から「第三章 水清ければ魚棲まず」に入る。今日のところは、「秦の始皇帝」である。ここでは始皇帝による天下の統一とその統治、さらに始皇帝の死後の混乱である。それでは、読み始めよう。
「一字千金」呂不韋の『呂氏春秋』
秦王政は十三歳で王位につくが、そのとき実権を握っていたのは呂不韋である。彼は咸陽に広大な領地を賜り、贅沢三昧・栄耀栄華を極めた、さらに彼は三千人の食客を養い、そのうち文才のある物に手分けさせ、百科全書『呂氏春秋』を完成させた。
この出来栄えに自信たっぷりだった呂不韋は、首都咸陽の市場の門前に陳列し、その上に千金をぶらさげて「一字でも増減できる者がいれば、千金を与えよう」と立札を出した。
この故事が、すぐれた文章を「一字千金」ということの由来である。
この呂不韋の運命はその後暗転する。秦王政の実母は、呂不韋の手引きで嫪毒という男を寵愛し、二人の子供までもうける。これを知った秦王政は、嫪毒を車引きの刑に処し、母の生んだ二人の子供も殺害する。そしてこの事件の原因を作った呂不韋を失脚させた。呂不韋は、失脚後も隠然たる勢力を保ったため、政は、呂不韋を流刑にする決定をした。これにより呂不韋は、観念し毒をあおいで自殺する。
これにより秦王政は名実ともに秦の最高権力者となった。即位してから十二年後、二十五歳のときであった。
荊軻の暗殺劇
秦王政は、各方面に軍勢を動かし天下統一へ動いた。この時、危機感を募らせた燕の太子である丹は、秦王政の暗殺を企てた。そして燕の命運をになう刺客として荊軻が選ばれた。しかし疑り深い秦王政と直接会うのは至難の業であった。そのため荊軻は、太子の丹に、秦王政が欲しがっている秦から燕に亡命してきた「樊於期の首」と「燕の督亢地方の地図」を要求した。太子丹は難色を示したが樊於期みずから首をはねて果てた。
かくして、荊軻は樊於期の首と督亢の地図、および毒を塗った鋭利な匕首をたずさえ、秦舞陽という燕の勇士をお供に引き連れて、秦へと旅だつことになります。(抜粋)
この旅立ちのとき、太子丹を始め事情を知った者が白い喪服をつけて見送った。別れにさいし筑の名手の高漸離の演奏に合わせて、荊軻は歌った。
風は蕭蕭として易水寒く
壮士 一たび去って復た還らず(抜粋)
見送る者は、この悲壮な歌声に心を揺さぶられ、目を怒らして髪を逆立てたとされる。
しかし、荊軻は会見の場で、秦王政を突き刺そうとしたが間一髪のところで逃げられ、その場で切り殺されてしまった。
この荊軻の暗殺劇は『史記』の「刺客列伝」に収められている。
その後秦王政は、六国すべてを併合し、秦の天下統一が成就された。秦王政三十九歳の時である。
「泰山は土壌を譲らず」始皇帝と李斯
天下統一を果たした秦王政は、まず最高権力者の称号として「皇帝」を採用し、自らを「始皇帝」と名乗った。そして、中国全土を三十六の郡に分け、各郡に皇帝の任命した官吏を派遣して中央集権体制を確立した。そして、各国でバラバラだった度量衡、貨幣、車軌(車の両輪の幅)、文字などを統一し、社会、経済、文化の制度を整備・統合した。
このような改革で始皇帝のブレーンとなったのは、李斯であった。
この李斯は、性悪説を説く荀子(ココ参照)の一門であり、秦に厳格な法や制度を導入して強国とした商鞅(ココ参照)の後継者だった。
この李斯は、楚の出身だが、最強国秦に仕えて立身出世をした野心家であった。彼は始皇帝に仕え中央集権体制を確立した立役者である。
しかし、李斯も順風満帆ではなく、始皇帝が天下を統一するまえに、李斯の辣腕を警戒した臣下たちの献言により、他国者を排除する「逐客令」が出された。このとき李斯は「泰山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す」と上書して、他国出身者を排除することに異を唱えた。始皇帝はこれを認めて「逐客令」を取り消した。
この故事により「度量を広くして、異質な者を多く受け入れること」を「泰山は土壌を譲らず」というようになった。
「焚書坑儒」始皇帝政治
この李斯は、強引な思想統制を推進した。李斯は医学書や農業書などの実用書と『秦記』(秦の歴史)を除いた、歴史書・文学書・哲学書などを焼き払う『焚書』により思想統制を徹底した。
また、天下を統一した始皇帝は、死への恐怖に取りつかれていった。始皇帝は自分の死後も支配者たらんとして首都咸陽の郊外に広大な驪山陵(始皇陵)を建造する。一方、方士(方術を行う者)の言葉を真に受けて、不老不死の仙薬や仙人を探い求めた。
そして、始皇帝は盧生というインチキ方士にだまさえれ、怒り心頭に盧生の関係した方士や学者を大量に逮捕して、四百六十人を生き埋めにした。これが悪名高い「坑儒」である。
このように天下を統一するも始皇帝は死の影におびえていた。そしてあっけなく終焉を迎えた。始皇帝は、天下巡遊の途中で重病にかかってあっけなくこの世を去った。始皇帝はまだ五十歳だった。
「鹿を指して馬と為す」趙高の圧政
始皇帝が天下巡遊に随行していたのは、末子の胡亥、丞相の李斯、宦官の趙高であった。彼らは共謀し長子の扶蘇を後継者に指名した始皇帝の遺書を握りつぶし、始皇帝の死を隠して首都の咸陽に向かった。途中彼らは、使者を送って扶蘇を自殺に追い込み後見役の将軍・蒙恬を逮捕し自殺に追い込んだ。
そして咸陽につくと始皇帝の死を発表し、胡亥が第二代皇帝の座に就いた。この胡亥は無能な人間で、彼が即位したとたん秦王朝は滅亡に向かっていった。
趙高が胡亥を巧みに扱い、李斯をはじめとして邪魔者は徹底的に排除した。李斯は、次男と共に刑場に連れていかれたとき、次男に向かって
「おまえともう一度、黄色い犬を連れて、生まれ故郷の上蔡(湖南省)の東門を出て猟に行き、兎をおいかけたいと思っていたが、それも今はかなわぬ夢となった」。(抜粋)
といった。
その後、胡亥は完全に傀儡となり、趙高のやりたい放題となった。
ある日、趙高が胡亥に鹿を献上し、「これは馬でございます」と言った。胡亥は笑って「いや、これは鹿だ」といい、その場に居合わせた臣下にどうだと聞いた。すると、鹿だという者もいれば、馬だと言う者もいた。
このようすを観察していた趙高は、正直に鹿だといった者を、あとで口実をもうけて殺してしまいました。(抜粋)
この故事がもととなり「まちがったことを他人に押しつけること」を「鹿を指して馬と為す」という言葉が生まれた。
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