『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 「呉越同舟」 — 乱世の生きざま 1 春秋五覇(その3)
今日のところは、「第二章 呉越同舟」「1 春秋五覇」の(その3)ある。斉・晋・秦・楚の四大国がしのぎ合っていた春秋時代も末期になると呉と越が強大になり北方を制圧した。そして、呉と越の壮絶な戦いが始まる。今日のところは、この呉越の戦いを数々のエピソードを交えたどっている。それでは、読み始めよう。
「呉越同舟」、呉と越の戦い
「屍に鞭打つ」
まず呉が強大になり大国、楚を打ち破った。この勝利には呉王・闔閭の参謀・伍子胥の力によるところが大きかった。伍子胥は、楚の平王に父と兄を殺され、復讐に燃えて後に亡命し闔閭の参謀となった。そして呉軍が楚の首都を制圧したとき、すでに亡くなっていた平王の墓から屍を引きずり出して、三百回も鞭打って復讐した。
この故事により、死者を非難すると意味で使う「屍に鞭打つ」という成語が生れた。
「臥薪嘗胆」夫差と勾践
次に越がしだいに力を強め呉に戦いを挑むようになる。呉王・闔閭は越と闘いで、若い越王・勾践との戦いに敗れ、息子の夫差に「越への恨み忘れるな」と遺言して亡くなる。夫差は、日々薪の上に寝て(臥薪)怨みをかきたて、伍子胥の補佐を受けて越軍に勝利を収めた。
このとき、越王・勾践は名参謀の范蠡の意見を聞き、夫差の臣下の太宰嚭に賄賂を贈って、夫差に和平を懇願して滅亡を逃れた。以後、越王・勾践は、苦い肝を嘗て(嘗胆)敗北の屈辱を蘇らせた。
この故事により将来の成功を期して、苦労を耐え忍ぶことを示す「臥薪嘗胆」という成句ができた。
「顰に倣う」絶世の美女西施
そして肝を嘗め呉への復讐の機会をうかがっていた越王・勾践は、好色な越王・夫差のもとに越きっての美女・西施を送り込んだ。すると夫差は、たちまち西施に溺れ君主としての判断も怪しくなる。そして、何かと苦言を呈する名参謀伍子胥を疎むようになり、ついに自殺に追い込んでしまう。
伍子胥はが、「私の墓の側に梓の木を植えよ。それで呉王夫差の柩がつくれるように。私の目をえぐりとって、呉の東門にかけよ。それで越の軍勢が侵入し呉を滅ぼすさまを見とどけられるように」と壮絶な遺言をのこし、呉王夫差を呪いながら死んだあと、呉は滅亡への坂を転がり落ちるばかりでした。(抜粋)
ここで著者は、この絶世の美女西施に関しては、数々の伝説を生んでいるとして、二つの逸話を紹介している。
あるとき西施が病気にかかり、苦痛に耐えかねて眉を顰めた。そのやつれた美しさに感動した醜女がまねをすると、ものすごい形相となり、見た人が恐怖でふるえあがった。
この故事により他人のまねをすることを「顰に倣う」という表現が生れた。
また、北宋の大詩人・蘇東坡は、西施の美貌を風光明媚な西湖に譬えた。この詩のイメージをふまえて、松尾芭蕉は、「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んだ。
「狡兎死して走狗烹らる」名参謀范蠡
ひそかに復讐の機会を狙っていた越王・勾践は、呉を攻め呉王・夫差は自殺するに至る。これにより呉越の戦いは終わる。
後年、仲が悪い者同士が手を組むことを「呉越同舟」というようになったが、実際は、越が呉を滅ぼすまで戦いは止まなかった。
この戦いの勝利には、名参謀范蠡の力が大きかった。しかし范蠡は、呉越の戦いが終わった直後、「狡兎死して走狗烹らる(すばしっこい兎がいなくなると、猟犬は煮て食べられてしまう。)」という名言を残し、越王・勾践のもとを去った。目的を果たした支配者や必ずと言っていいほど有力な重臣を排除・粛清するからである。ここで著者は絶世の美女西施は、実はもともと范蠡の恋人であり、この時一緒に逃げたという伝説もあると付け加えている。
呉が滅亡した後、越もそう長くは続かず、呉王夫差と越王勾践を春秋五覇に数える説もあるとしながら、著者は彼らが覇者として勢力をふるった時期があまりにも短いため、やはり小覇者的な存在としている。
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