『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
序 章 誰もがポピュリスト?
今日から「序章 誰もがポピュリスト?」である。前回は「日本語版への序文(二〇一七年一月)」であったので、ここが本書全体の序文となるのだろう。ここには「ポピュリズム」「ポピュリスト」などがどういう意味であるかという定義、そして彼らにどのような特徴があるかについて解説がある。その後、各章で取り扱われる話題をあげ本書の全体像が語られる。それでは、読み始めよう。
二〇一五年から二〇一六年にかけてのアメリカ大統領キャンペーンでは、共和党のドナルド・トランプも民主党のバーニー・サンダースも「ポピュリスト」と呼ばれた。
この「ポピュリスト」という言葉は、「反エスタブリッシュメント」の同義語として使われるが、政治理念とは無関係に見え、それよりも特定のムード、たとえば「怒り」や「不満」「憤懣」などと結びつけられる。
注)「エスタブリッシュメント」=「社会的に確立した制度や体制。支配階級・組織」
政治的には右翼の指導者も左翼の指導者もともに「ポピュリスト」と呼ばれる人たちがいる。これらの人たちの政治的アクターに共通するものはなんだろうか?
ポピュリズムについて語っているにもかかわらず・・・(中略)・・・・、われわれは何ついて語っているのか理解しているとは程遠いという観察から本書はスタートする。(抜粋)
われわれには、ポピュリズムの理論があるわけでもなく、ある政治的アクターがポピュリストに転じたと判断する基準を持っているわけでもない。
そして著者は、本書の目的について次のように言っている。
本書は、われわれがポピュリズムを識別し、それに対処することを手助けしようとするものである。(抜粋)
そして本書では第一に、いかなる種類の政治アクターがポピュリストと見なせるかついて考察する。ポピュリスト見なすために「エリート批判」は必要条件であるが、十分条件ではない。ポピュリストは、反エリート主義に加えて「反多元主義者」である必要がある。
ポピュリストは政治的な競争相手を非道徳で腐敗したエリートとして描く。そして、統治するときは、いかなる反対派も正当なものとして承認することを拒む。ポピュリストは、自らと人民を同一視し、そして残りの者たちを、非道徳で人民の一部で全くないと非難する。
民主主義は多元主義と承認を必要とするため、このようなポピュリズムは民主主義の脅威となる。
このようなポピュリストの統治には、
- 国家機構を乗っ取る試み
- 腐敗および「大衆恩顧主義」(市民の政治的支持を物質的な利得や官僚の依怙贔屓と交換し、市民をポピュリストの「クライアント」とすること)
- 市民社会を体系的に抑圧しようとする努力
の3つの特徴がある。
多くの権威主義者も、似たようなことを試みるが、ポピュリストの場合は、自分たちのみが人民を代表していると主張することによって自らの行為を正当化する。
本書の第二章では、どうしてポピュリストたちが憲法を制定まで望むかを示す。ここでの憲法は多元主義を保護する道具ではなく、多元主義を排除する役割を果たす。
第三章では、ポピュリズムのより深い原因、近年の西洋の社会経済的な展開などに焦点を当て、そして、ポピュリスト政治家とその支持者たちをどのように対処するかの問題を提起する。
民主主義は、他の政治形態の権威主義者にとっても主要な政治的目標であり、こんにちの民主主義にとっての脅威はそのような民主主義的体系を否定するようなイデオロギーではない。
民主主義にとっての脅威は、ポピュリズムである。ポピュリズムは民主主義の内部から発生し、民主主義の言葉で語る。
その最終的な帰結が露骨に反民主主義的な政治の一形態だということは、われわれをみな悩ませるだろう。--- そして、どこで民主主義が終わり、どこでポピュリストの危険が始まるのかについて、われわれが正確に見定めることを助けるような、ニュアンスをある政治的判断の必要性を示すだろう。(抜粋)
序章を読んでみて、まずは今までの「権威主義 = ポピュリズム」的な考え方が間違っていたことがわかった。そして、民主主義にとって権威主義的なイデオロギーよりもポピュリズムの方がより脅威であるということである。なるほどなるほど。(つくジー)
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