『聞く技術 聞いてもらう技術』 東畑開人 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1章 なぜ聞けなくなるのか(後半)
前半、最後は「ウィニコットの「環境としての母親」「対象としての母親」は、「聞く」ということとよく似ている」で終わっていた。後半はこの「聞く」との類似点からはじまる。
「環境としての母親」と「聞く」
この「環境としての母親」は、普段の「聞く」とよく似ている。普段、何事もないとき、大体は聞けている。しかしこの「聞く」が失敗することもある。
自分のことでいっぱいのとき、相手の好意に甘えすぎている時
そういうとき、「全然聞いていない」と声が上がります。「まったくわかっていあい」と怒られるかもしれません。(抜粋)
このような緊急事態の時、改めて「聞く」に取り組む必要がある。政治も同じで、緊急事態の陥った時に「首相は何をしている」「ちゃんと私の話を聞いてくれ」と声が上がる。
では、この「失敗」とは何か。私たちは、あって当たり前のものが「ない」とき、何かが失敗したと気づく。
欠乏。これこそが問題です。(抜粋)
しかし、失敗したとしてもすぐに原状を回復すれば、話はそれですむ。問題なのは、失敗してもすぐに挽回できずに、欠乏を埋めようがないときである。そのような時、「聞く」に取り組まねばならない。
聞くことの力
残されている方法は、「聞く」しかありません。(抜粋)
解決できない問題を前にして軋轢が生まれている時、出来ることは、不信感に耳を傾け、自分が何を失敗したのか、相手がどのような痛みに苦しんでいるのかを聞くことだけである。
著者は社会季評で取り上げたメルケル元首相の演説が緊急事態において国民に届いた理由は、彼女がドイツ国民の痛みについて繰り返し言及したからだと説明している。
心にとって真の痛みは、世界に誰も自分のことをわかってくれる人がいないことです。(抜粋)
また、著者は同じような事例としてアーサー・クラインマンが示した。「聞いてもらう」ことにより痛みに耐えられるようになった事例を紹介している。
「聞く」が痛みをやり過ごすのに役立ったということです。(抜粋)
人間にとって真の痛みとは何より孤独であることです。聞くには、現実を変えるちからはなくとも、孤独の痛みを慰める深いちからがあります。(抜粋)
聞くことの難しさ
しかし、実際には「聞く」ことが難しい。聞き手が第三者である場合は、比較的「聞く」はうまくいくが、聞き手が当事者である場合は、当事者同士の関係が悪くなっている。
ここには孤独がひとつではなく、ふたつあります。聞く側も聞かれる側も孤独なのです。(抜粋)
相手との関係が悪くなると話を聞けなくなり、そして普段はうまくいっていた「聞く」が悪循環を始める。孤独が膨らみ余裕がなくなり、「聞く技術」はもう使えなくなる。
それでも話を「聞く」ためには孤独に耐える必要がある。しかし、この孤独に耐えるは、つながりがなくても大丈夫な強靭な魂を鍛えることではない。
そうではなく、誰かがその孤独についてわかってくれていることこそが必要です。僕らは一人では孤独に耐えられないのです。誰かが隣にいなくてはいけない。(抜粋)
そうであるから、話を聞くためには、誰かに話を聞いてもらう必要がある。孤独な挑戦をするために後ろから支えてくれる人が必要である。
ここの部分話が少しややっこしいのですが、AさんとBさんの関係が悪くなって、話が聞けなくなった場合、Aさん(孤独)がBさん(孤独)の話を聞き続けるためには、AさんはCさんに話を聞いてもらう必要がある・・・って事だと思うが?(つくジー)
聞くと孤独
「聞く」は普段はグルグルと回っている。しかし欠乏によってその循環が壊れると孤独が発生し、関係が悪化する。
ここで「聞く」の再起動が必要になる。この時、欠乏は変えられなくても孤独と向き合うことはできる。その痛みを聞くことが何よりも大切である。
しかし、孤独を聞こうとすると人は孤独になり、ますます「聞く」が出来なくなる。
「聞く」の中核にあるのは孤独の問題です。(抜粋)
そうであるから、まず聞いてもらう、から始めることが処方箋になる。
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