エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
三一 不幸な王としあわせな王
今日のところは第31章。ここでは30年戦争後の二人の王の話。すなわち不幸な王であるカルル(チャールズ)一世としあわせな王のルードヴィッヒ(ルイ)十四世の話である。
カルル(チャールズ)一世
イギリスは三〇年戦争に巻き込まれなかった唯一の大国であった。しかし、そのころ即位したカルル(チャールズ)一世は、四〇〇年間守られてきたマグナ・カルタの約束を破り、議会や市民の声に耳を貸さずに思いのままの政治をとり、莫大な金を自由に使っていた。
イングランドの民衆はこれを気にいらなかった。ピューリタンと呼ばれた厳格なプロテスタントの指導者オリヴァー・クロムウェルに率いられた軍隊は、長い戦いの末に、カルル一世を逮捕し、軍事法廷に引き出した。そしてカルル一世は一六四九年に死刑になった。
その後、クロムウェルは王ではなく「国の守護者」を名のりイングランドを支配し、イングランドの強大化に努めた。クロムウェルの死後には、王が再び支配の座に復帰したが、その頃イギリスの力は絶大となり、それ以降マグナ・カルタを破る王はいない。
ルードヴィッヒ(ルイ)十四世
イギリスの王に比べてフランスの王たちは幸せであった。彼らには、「大いなる手紙」はなく、その国土は宗教戦争でさえも完全に破壊されなかった。そして何よりも彼らには、三〇年戦争時代にすばらしく頭の働く枢機卿リシュリューが本当の支配者であったことである。彼は三〇年戦争の時代にその術でフランスをヨーロッパで唯一の最も有力な国にした。
そしてリシュリューの死後、一六四三年に太陽王ルードヴィッヒ(ルイ)十四世が王位に就いた。その後、一七一五年までの七二年にわたる長い在位期間にわたり、彼は本当に統治したのである。幼いときはリシュリューのやり方を真似た枢機卿マザランが後見したが、マザランが世をさると王は自身で政治をとることを決めた。
彼は、自分の承諾なしではいかなるフランス人にも旅行許可をあたえてはならないと命令した。宮廷は、それを若い支配者の気まぐれとわらった。そんなことは王にはすぐに面倒くさいものになるだろうと、人びとはおもったのだ。しかしそうはならなかった。彼にとって、王となるべく生まれたことはけっして単なるぐうぜんではなかったのだ。王であることはひとつの劇のなかの大役であり、いまや彼はその役を生涯をとうして演じつづけなければならなくなったのだ。そして、彼以前にも彼以後にも、この役を正確に研究し、飽くことなく最後まで、権威をもって華麗に演じきった者などいなかった。(抜粋)
彼の日々の生活は朝から晩まで仰々しく手間をかけた舞台劇のようにすすめられた。
また、彼は城の建築にも情熱をかけ荘厳なヴェルサイユ宮殿を建てた。
このような生活や城の建設のために、当時の農民は年貢と使役で骨の髄まで苦しめられ、文字どおり残り物と雑草で生きていた。
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