佐渡への配流(その2)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 佐渡への配流(その2)

今日は第四章のその2である。前回、その1では、佐渡配流に至る過程を概観し、捕縛から竜の口刑場であわや殺されそうになったこと。逮捕後に日蓮信徒への迫害が起こり多くの信徒が改宗したこと。そして、佐渡の塚原三昧堂で『開目抄』『観心本尊抄』の執筆をしたことなどが書かれていた。
そして、今日の部分、その2で『開目抄』がその3で『観心本尊抄』について解説されている。


『開目抄』と『観心本尊抄』は、共に佐渡から遠くの門人たちを指導するために書かれた。両者はセットとしていちづけられ、次にような関係にある。

  1. 開目抄にんかいけんと称され、法華経の行者としての日蓮の立場を表明している
  2. 観心本尊抄:法開顕と称され、『法華経』の真理を開示している。

『開目抄』は、日蓮の著作中で最も大部なものである。また、『開目抄』は、日蓮にとって門徒に対する遺言でもあった。竜の口の法難によって、一度、死んだと確信した日蓮は、『開目抄』をもって形見して門弟らに残そうとした。

開目抄のアウトライン

ここで著者はまず『開目抄』のアウトラインを示している。
『開目抄』は、はじめにいっさいしゅうじょうが尊重するものとして、主・師・親があるとする。そしてえ、習学するべき教えとして、儒教、外道(インドにおける仏教以外の教え)、内道(仏教)があると書いている。
そして、この仏教の箇所が膨らんでいき、その中で『法華経』が独勝であることが説かれ、法華経の行者としての実践へと話が展開している。
そして、日蓮は問いを発する。「日蓮は法華経の業者として恥じないものなのに、なぜ諸仏・菩薩・神の加護がなく、このような苦難に陥るのか」
日蓮はその理由を、前世に『法華経』を誹謗した悪業に求める。

そのうえで、ますます『法華経』への信仰を強くしてゆく。そして、「私は日本国の柱となろう。私は日本国の眼目となろう。私は日本国の大船となろう。そのように誓った大願を破ることは決してない」という大願が記される。(抜粋)

そして、流罪になったことは現世で受けるわずかな苦に過ぎず、嘆くことではない。むしろ、過去の罪障を滅し、未来に大楽を受けることになるので悦ばしい事だ、で終わっている。
『開目抄』は、このようなアウトラインである。
この後に『開目抄』の内容を、「『法華経』の解釈」と「法華経の行者としての日蓮」とに分けて解説されている。まずは『開目抄』での『法華経』の解釈についてである。

『法華経』の解釈

アウトラインにもあるように『開目抄』では、儒教・外道・内道(仏教)のうちで内道が最も勝れ、とりわけ『法華経』が独勝であるとする。まず、天台教学(ココココを参照)では、『法華経』以前の教えを「爾全の教え」(=根本真理でない方便の教え)とする。さらに『法華経』も迹門と本門に分け、仏教の教えは、爾全、迹門、本門の順に進化したとする。
爾全に対して迹門が優れている点は、声聞、縁覚、菩薩のうち小乗である声聞、縁覚は仏に成れない(三乗説)に対して、一切の衆生は成仏できる(一乗説)にある。『開目抄』では、声聞、縁覚も成仏できることを「じょうぶつ」という。
本門は「おんじつじょう説」で初めて開示される。これは、釈迦は、仏陀の仮の姿で、本当は久遠の昔に成仏していたとし、仏陀の永遠性を主張する説である。日蓮も、この「一乗説」「久遠実成説」などの天台宗の説に拠っている。

そしてさらに日蓮は「一念三千説を重視」している。日蓮は、次のように書いている。

一念三千の法門は、だた法華経本門の中心であるにょらい寿じゅりょうほんの経文の奥底に沈められている。りゅうじゅてんじんといった菩薩たち(両者ともインドの高僧)はしっていたが、その教えを取り出さなかった。ただ、わが天台大師だけが一念三千の教えを経文の底から拾い出した。(抜粋)

この一念三千説について著者は、主に『観心本尊抄』の方で扱われているのでそこで詳述としている。

『法華経の行者としての日蓮』

次に、「法華経の行者としての日蓮」について解説される。
『開目抄』の中心論題は「法華経の行者」としての日蓮である。日蓮は法華経の行者であるといきょうを持っているが、たびたび苦難に襲われる。なぜ諸天の加護が無いのだろうか?我が身は法華経の行者でないのだろうか?と日蓮は疑問に思う。『開目抄』の後半はこの問題に対しての答えである。
『法華経』の観持品のに「多くの無知の者が法華経の行者の悪口を言い、そしり、また、刀や杖、瓦、石で迫害するだろう」と説かれている。しかし、日蓮以外の粗諸僧のだれが法華経に付いてそのような危害を加えられただろうか、もし日蓮がいなければ観持品の偈は絵空事になる、と日蓮は考えた。そして、この観持品の偈がまさしく日蓮の苦難を予言していると考えた。
では、日蓮に諸天の加護が無いのはなぜか、それは日蓮が法華経の行者でないということか、という点に対して『開目抄』では議論が展開していく。ここで日蓮は『法華経』の字面を追うのではなく身読(色読)していく。

結局、日蓮は「法華経の行者」であるのだが、じょうきょう菩薩のように前世におけるほうぼうの罪によって、苦難を受けているという結論を見いだすのである。(抜粋)

日蓮は、この『法華経』の身読により自分が法華経の行者であるという確信をえる。そして、三大請願を書き著している。

私は日本国の柱となろう。私は日本国の眼目になろう。私は日本国の大船になろ。(抜粋)

つまり、日蓮は

  1. 国の柱としてこの国支える
  2. 国の眼目としてこの国の人びとを導く
  3. 国の大船として人々を安楽の彼岸へわたしていく

と請願をたて、自分を末法の法華経行者、真の救済者として自覚している。

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