新しい信仰
エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 より

Reading Journal 2nd

エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

二八 新しい信仰

「新しい・…」も最後の3つ目となった(ココ参照)。今日のところ第28章は「新しい信仰」、つまりルターを中心としたプロテスタントの話である。

ルネッサンス以降ローマでは教皇たちは聖職者というよりも華やかさとか権威とかを大切にし、贅をこらした巨大な建物を建てていった。
これら建造には莫大な資金がかかった。多くの司祭や修道士たちは、教皇に気に入られるために、教会の教えとは合致しない方法でその資金を集めた。すはわち「免罪符」を売った。

そのころ、ドイツのヴィッテンベルクのアウグスティヌス修道会に属していたマルティン・ルターがいた。一五一七年に一人の免罪符売りがヴィッテンベルクにやってきたとき、ルターは教会の扉に九十五項目の条文を書いた板を張り付けた。ルターはこの条文のなかで、罪の赦しという神の恩寵を商業的に取引することを激しく攻撃した。かれは、神の罰から救ってくれるものは、ただ一つ神の無限の恩寵だけと考え、免罪符とその乱用と激しく争った。そして、信仰以外何もいらないと主張するようになった。

何びとといえども、他人をたすけて神の恩寵を得させることはできない。信じる者はじゃれ自身が司祭である。教会の司祭は、単に教師、協力者に過ぎない。それゆえ彼も、他の人間と同じように生きることがゆるされ、結婚もゆるされる。信じる者に教会の教えはいらない。彼自身で、聖書のなかに神の教えをさがせばよい。聖書のなかにあるもの、それだけがすべてである。これがルターの考えであった。(抜粋)

ルターの活版印刷された著書はドイツで広まり、多くの人が彼の考えに賛同した。これに怒った教皇は、ルターを破門すると脅したが、ルターはそれにひるまず破門されてしまう。ルターは、完全に教会から離れることを宣言した。ドイツでは彼の考えに多くの人が賛同して彼の「宗教改革」に加わった。

一五一九年にハプスブルグ家のカルル五世が神聖ローマ帝国の皇帝となった。カルル五世とローマ教皇は良い関係にあったので、彼は異端者ルターを逮捕しようとした。しかし、ルターの故郷のヴィッテンベルクの領主、賢侯フリードリッヒは、それを許さなかった。
カルル五世は、一五二一年にドイツで初めての帝国議会であるヴォルムスの議会にルターを呼び寄せた。質素な修道服で現れたルターに皇帝は、ただちに自説を取り消すように要求する。しかしルターは、長い演説の後に次のように言った。

「わたしの良心は、ただ神のことばにのみしたがいます。良心に逆らうことは危険でありますから、わたしは何も取り消せないし、取り消したいとは思いません。神よ、わたしをお守りください。アーメン。」(抜粋)

帝国議会は、ルターを異端者とし、彼を警戒するように命じた法律を発布する。そこで彼の保護者であるフリードリッヒは、偽りの名前でヴァルトベルクの彼の城にルターを隠した。ルターは、そこで聖書をドイツ語に訳した。このころはまだ共通するドイツ語はなくバイエルン方言やザクセン方言などがあった、しかしルターは誰にでも理解できる一つの言語を新たに作ろうとした。そしてそれが現在のドイツ語を作り上げた。

ルターがヴァルトベルク城に隠れているころ、彼の影響を受けた「ルター派」は過激になっていった。過激なルター派は、「聖像破壊者」「再洗礼主義者」とよばれルターは、彼らとも戦わなければならなかった。
ルターの支持者はプロテスタント(反抗するひと)と呼ばれたが、このプロテスタントの統一のなさは、カトリック教会にとって大きな利益となる。そのころ、チューリヒのツヴィングリやゲンフ(ジュネーヴ)のカルヴァンが同じような考え方を持っていた。しかし、彼らの考え方は似ていたが、その支持者たちは一致して団結することはなかった。

カルル五世の時代は混乱が絶えず信仰の名の下に戦争が繰り返された。一五五六年にカルル五世はこのような彼の帝国にうんざりし、オーストリアの支配権と神聖ローマ帝国皇帝位を弟のフェルディナンドスにゆずり、スペインとオランダを息子のフィリップ(フェリペ)にあたえて、自身は、スペインの修道院ザンクト・ジュスト(サン・ユステ)にひきこもり、時計の修理と調整をすることで日々をおくった。

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