気高く勇敢な騎士
エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 より

Reading Journal 2nd

エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

二三 気高く勇敢な騎士

前回、第22章は、中世の話でローマ教皇が皇帝との争いに勝って名実ともにキリスト教の支配者になるまでであった。今日のところ第23章は、表題のとおり、中世ヨーロッパの「騎士」の話と彼らが中心となった十字軍についてである。

きみは、かつて騎士の時代というものがあり、そのころ騎士というものについてきっとどっかで聞いたことがあるだろうね。いや、おそらくすでに本で読んだことがあるだろうね。きれめく鎖の鎧、色あざやかな大きな羽飾りのついた兜、ういういしい若武者の従者、いななく駿馬、あざやかな紋章、難攻不落の白、名誉をかけた一騎打ち・・・・・(後略)・・・・・・・(抜粋)

と著者は、話を始める。そしてそれにつづけて

そして何といってもすばらしのは、これらすべてがほんとうにあったということだ。それら一つ一つの胸躍らせることがらは、けっしてつくり話ではなかったのだ。(抜粋)

とちょっと興奮気味に語っている。そう、騎士の話はきっと西洋の子どもたちが目を輝かせる話なんだろうね。

そしてこの騎士の時代が、いつごろで、騎士はどんなものだったかについてが、この章のテーマである。
騎士というものは、本来は馬に乗る人のことで、騎士という制度は底から始まった。戦争に乗って出かける馬を所有できるものそれが騎士であり、貴族や大農場の管理人などが騎士であった。
騎士は、一〇〇〇年ごろハインリッヒ四世の時代にはじまり、その後数百年間つづいた。そしてそれはドイツだけでなくフランスでも同じであった。

しかし、ただ馬に乗って戦う戦士とうだけでは、まだ今日の私たちが考える「騎士」ではない。(抜粋)

として、ここより中世に騎士についての詳細が語られる。

そのころの領主や貴族、つまり騎士たちは、大きく堅固で堂々とした山城で生活した。騎士の子どもは騎士になるために、七歳になるとよその城へ行かされた。そこでパージュ侍童 [じどう])として、その城の貴婦人たちに仕えた。そしてパージュは十四歳でクナッペ従士[じゅうし])となった。クナッペは狩りや戦に馬の乗って出かけることが許される。盾や槍を持った主君たる騎士に従い、戦のさなかに騎士の槍が折れたら、直ちに次の槍を渡すのが仕事であった。そしてクナッペとして勇敢で恭順なものは二十一歳で騎士に叙任された。

騎士は単に戦場で馬に乗って戦う戦士ではなく、修道士と同じく祈りと慈善の行為でも神に仕えるものであった。彼らは、女性や貧者、未亡人や孤児などの弱いものを守らなければならなかった。騎士はひとりの女性を愛すると、彼はその女性にふさわしくあることをこころにちかって戦場に出かけ、その女性のためにいかなる冒険も怖れなかった。平和の時でもトーナメント(馬上試合)を行って技と勇気を誇った。

きみの知っているように、騎士のもっとも大切なつとめは、神とキリスト教徒のために戦うことであった。そして彼らは、そのすばらしい機会を見つけた。エルサレムのキリストの墓は、パレスティナ全域と同様アラビア人の、すなわち異教徒の手のなかにあった。そのことを、フランスのある熱狂的な説教師が騎士たちに思い出させた。そしてドイツの王たちを負かしてキリスト教徒の強力な支配者となっていた教皇が、キリストの墓の解放をねがったとき、何千何万という騎士が「神のお召し」にこたえて馳せ参じた。(抜粋)

一〇九六年、騎士たちはフランス人の領主ゴドフロア・ド・ブイヨンの指揮のもとにパレスティナに向かった。彼らはころもに赤い布の十字を張り付けていたため、十字の軍隊とよばれた。そして彼らは、数年にわたる戦闘の後、エルサレムを占領した。彼らはゴドフロア・ド・ブイヨンを統治者としてキリスト教国家エルサレムを建てた。
この十字軍の遠征は、ひとつの利益をもたらした。それはアラビア文化の吸収であった。

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