エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
二一 統治できる征服者
第20章は、イスラム教徒とイスラム帝国の話でであった。第21章はまたヨーロッパに話は移り、フランク王国の偉大な王「カルル大帝(シャルルマーニュ)」についてである。
これまでの話から世界を征服し大帝国を築くことは簡単なことのようおもうかもしれないと著者は語り始めた。実際に古代においては情報の伝わり方も緩やかであるため征服はそれほど難しいことではなかった。しかし、統治することは、はるかに難しかった。しかし、これから話すカルル大帝は、征服するとともに統治も行える王であった。そのため、彼は「大帝」と呼ばれる。
カルル大帝は、アラビア人をフランク族の土地に入れなかったメロヴィンング王朝の将軍、カルル・マルテルの子孫であった。カルル・マルテルを生んだ家系は統治にも優れた才能を示す。そして、カルル大帝も父親のピピンは、ほぼ今日のフランス東部とドイツ西側半分を占めるフランク王国の支配者となった。
しかし、王国と言ってもローマのような官僚制を整えた確固とした国家ではなく、様々な部族からなっていた。この部族の首領は「ヘルツォーク」(公)と呼ばれ「へ―ル」(軍団)先頭に立って「ツーク」(引っ張った)。そしてこのヘルツォークが支配した領域を「ヘルツォークトゥム」(公国)と呼んだ。
この部族のうち最も力のある部族がフランク族で他の部族は従属し、戦いのときはフランク族の側につかねばならなかった。そしてその最高に地位についたのがカルル大帝の父親ピピンだった。七六八年カルル大帝はその後を継ぐ。
カルル大帝は、フランス全土を手中に収めた後、イタリアに向かい、征服後に自身がその保護者と自認していたローマ教皇に支配権を渡す。その後東方のオーストリアを征服した。そのころドイツの東方はまだフランク王国に属していず、ザクセン族が住んでいた。カルル大帝は、ザクセン族を降伏させ、さらに洗礼を受けさせる。
カルル大帝の権力は強大となった。そしてかれはただ征服するだけでなく良い統治も行った。学校を作り、裁判官を任命し、司教となる人物を選び、食糧品の値段まで定めた。そして、カルル大帝が最も重要と考えていたことは、ドイツ人を統一すること、すなわちいくつかの部族の公国を支配するのではなく、ひとつの確固たる帝国を築くことだった。そのころ、いままでフランク語、バイエルン語、アレマン語、ザクセン語などを話していたゲルマン民族に、「ティウディスク」という共通語つまりドイツ語が生れた。
カルル大帝は、ドイツ人の王、フランク王国の王というだけでなく、全キリスト教徒の守護者であった。そのためローマ教皇は、八〇〇年のクリスマスの夜、聖ペトルス(ペテロ)教会に足を踏み入れたカルル大帝の近づき、彼の頭に冠を載せた。
そして、教皇とすべてのひとたちはカルルの前にひざまずき、彼をローマ帝国の平和を守る、神が定めた新しい皇帝としてうやまった。おそらく教皇の思惑を知らなかったであろうカルル大帝は、大いにおどろいたにちがいない。しかしいまや彼は冠をいただき、のちに人びとが神聖ローマ帝国とよぶことになるドイツ国家の初代の皇帝になったのだ。(抜粋)
古代ローマ帝国の力と栄光を復活させること、これがカルルだけでなく、彼につづく皇帝たちに課せられたつとめとなった。しかし、それを実現されたのは、ただカルルの時代だけだった。
八一四年に、カルルが世を去ると、帝国は彼の三人の孫に分けられ、ドイツ、フランス、イタリアの三国に瓦解してしまった。
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