嵐の時代
エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 より

Reading Journal 2nd

エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』  
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

一八 嵐の時代

第17章で、二つに分かれるローマ帝国は、これから嵐の時代を迎える。今日のところ第18回は、ゲルマン民族の大移動ある。そしてその嵐が終わった後、次回第19章の中世とつながる。

国境地帯のゲルマン民族なかでもキンブル人やテウトニ人はたびたび帝国を侵入してきた。そしてカエサル、アウグストゥス、トラヤヌス、マルクス・アウレリウスなどの皇帝軍は、そのゲルマン民族と戦った。そしてはるか遠くのアジアの草原では、秦の始皇帝が築いた長城を超えて中国に侵入する。そしてもはや中国への進行ができなくなった時、彼らの侵攻は西方に向きを変える。
東方からの敵に追われたゲルマン民族の一種西ゴート族は、ローマ帝国内に逃げ込む、ローマは彼らを受け入れたが、やがて彼らと戦争が始まった。西ゴート族はアテネを攻略しコンスタンティノーブルに進行する。やがて四一〇年、王アラリクに率いられた民族はイタリアに向かい、この王の死後にスペインへと進み、そこにとどまった。ローマ人は他の国境から多くの軍隊を呼び戻すことが必要になり、ゲルマン人の諸族が帝国に侵入することになる。

この時代を歴史は、民族大移動の時代とよんでいる。それは、ローマ帝国に巻き上げ、そしてたたきつけた嵐の時代であった。(抜粋)

やがて東方のフン族そのものがやってくる。四四四年に王位についたアッティラは、すべてを奪いながら進みやがて世界の半分を征服した。そして西ローマ帝国の皇帝に、国の半分と娘と妻を差し出せと要求する。皇帝がこれを拒むと大軍を出発させ、四五一年、ガリアのカタラウヌム(シャロン)で大きな戦いが始まった。そして、戦いの決着がつかず、アッティラはローマに向かう。

ローマの司教が司祭たちを連れ、教会の旗をかざして彼らに立ち向かった。大教皇とよばれたレオである。だれもが、フン族にかんたんにひねりつぶされると思った。しかし、アッティラは反転したのだ。彼はイタリアを離れ、ローマは救われた。(抜粋)

そのころ皇帝はすでに力をうしなっていて、この教皇の働きがなかったら西ローマ帝国はほろんでいたに違いない。
このころ力があったのは軍でありそれを構成するのはゲルマンの戦士たちであった。ゲルマンの戦士たちは皇帝はいなくても良いと考え、四七六年に最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させてしまった。この後ゲルマンの将軍オドアケルがイタリアにおけるゲルマン人の王を名のった。これが西ローマ帝国の最後であり「古代」と呼ばれる長い時代の終わりである。

そしてこの四七六年から「中世」と呼ばれる新しい時代が始まる。しかしまだ混乱した状態は続いていた。東ローマに定住していた東ゴート族は、彼らを引き離そうと望んでいた東ローマの皇帝に西ローマ帝国に向かいイタリアを征服することをすすめられた。そして、四九三年に東ゴート族の大王テオドリックは、イタリアに向かいイタリアを征服した。テオドリックは、オドアケルを逮捕し処刑する。
同じころすなわち五二七年以来、コンスタンティノーブルでは、ユスティニアヌスが政権の座についていた。彼はかつての大ローマ帝国の栄光を取り戻そうとコンスタンティノーブルに教会堂ハギア・ソフィアを建て、またかつてのローマの法律をあつめ、すぐれた学者や法律家の注釈を加えて大規模な法律書『コルプス・ユリス・キヴィリス・ユスゥティア二』(コスティニアヌスのローマ法大全)を編集した。ユスティニアヌスは、テオドリックの死後ゴート族をイタリアから追放し、その国を自分のものにしようとした。数十年に及ぶ闘いの後、ほとんどのゴート族は戦死し、残ったわずかの軍隊も北方へと消えていった。これが偉大な民族東ゴート族の最後である。ユスティアヌスは、ラヴェンナも支配下に置いて、そこに立派な教会を建てる。

東ローマの支配者が、イタリアを支配した期間は長くなかった。五六八年、新しいゲルマンの民族が来たからやってきた。ランゴバルト人である。ふたたびこの地を征服した彼らの名は、今日もなおイタリアの一地方ロンバルディアにのこる。これが、すさまじい嵐の終焉である。その嵐はゆっくりと、中世の星夜の空へと晴れていった。(抜粋)

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