『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
特別寄稿 涙の聖典 - 「私の聖書」に出会うまで 若松英輔
最後に特別寄稿として「NHKこころの時代」で小友 聡と対談した若松英輔の文章がある。これは、若松がどのように聖書と出会ったかという随想である。
まずは、若松の師である井上洋治神父の話から始まる。カトリックの信徒である若松によると、その昔はカトリックの教会では、聖書はミサで朗読するものであり一人で読むものではなかったという。その若松が聖書を日常的に読むようになったのは、井上神父の『新約聖書』の勉強会であった。
著者は、井上神父の思想を、その主著『日本とイエスの顔』の話から説明する。井上神父は、キリスト教を信じるとは、詰まるところ、「私のキリスト」に出会うことであるとしている。そしてその言葉を引用する。
祈りができないのならそれでもよい、慈愛がの心がないのならそれでもよい、泥まみれの生活から抜け出られないのならそれでもよい、ただ手を合わせて私の方を向きなさい、私はアッパからいただいた私のすべてをこめて、私の方からあなたの方に飛び込んでいってあげる‐‐‐‐それがイエスのおもいでした。
(『日本とイエスの顔』井上洋治著作選集、日本キリスト教団出版局、二〇一五年)
ここで私はイエスで、アッパとはイエスが話しているアラム語で父を意味する語である。
神は、人間が自分のもとへ来るのをじっと動かず待っているのではない。人間が神を探す以上の熱意をもって人間の方へと出向いていく。それが井上洋治の神であり、イエス像だった。(抜粋)
そして、別の文章を引いて、「迫害する者のために祈れ」というのは、自らを苦しめる者たちのために祈れと言っているが、それは、よいことがあるように祈るのではない、ここでの「祈り」は神の手にゆだねることであるとしている。つまり、人を嫌悪し、怒り、憎むのが人間であるが、イエスはそういうものから私たちを遠ざけ神に任せよいっている。
この井上神父の「私のキリストに出会う」という視座は、のちに芥川龍之介の書作に触れたことで補強されている。
その後に、『旧約聖書』と『新約聖書』のはないから、内村鑑三の「ヨブ記」の講演(『ヨブ記講演』)の文章を引いた後、著者はこのように言っている
この「物語」は、よく「敬虔」とは何かという問題を考えるときにふれられる。だが、今の私にはやはり神の愛の物語のように映る。もちろんヨブは比類なき敬虔な人間である。しかし、その敬虔は神からの愛によって生かされている。ヨブが神の手を放しても、神がヨブの手を放さない、というのがこの聖典が私たちに教えてくれていることではないだろうか。「敵対者」は、ヨブがいつ神の手を放すのかを見ている。だが、「敵対者」には神の手は見えない。あるいは、神は「敵対者」には見えないかたちで人間を包んでいるといった方がよいかもしれない。(抜粋)
この「ヨブ記」に関する若松の文章は、井上洋治の「神は、人間が自分のもとへ来るのをじっと動かず待っているのではない。人間が神を探す以上の熱意をもって人間の方へと出向いていく。」ということを、ヨブ記の中に見出しているってことなんだろうかな?キット
ついでながら、この本の著者小友の『ヨブ記』の読みは、フランクルの「問いのコペルニクス的転回」と同じ、「生き方の方向転換」である。そしてそれは『コヘレトの言葉』にもつながるって話らしい。
さらにさらについでですが、この部分に内村鑑三の『ヨブ記』の読みが書いてあって、若松の読みを導いているんだけど、内村の読みは・・・難しくって、ちょっと分からなかったな。(つくジー)
関連図書:井上洋治(著)『日本とイエスの顔』井上洋治著作選集、日本キリスト教団出版局、2015
関連図書:内村鑑三(著)『ヨブ記講演』岩波書店(岩波文庫)2014年
全15回 完了
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