『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第5回 今をみつめる(後半)
今日は、第5回 今をみつめるの後半である。前半では、「コヘレトの言葉」が一貫して「終わらない世界観」を表現していることを示した。その後、「ダニエル書」にある黙示録、終末論に関するする説明がされた。これを受けて後半では、「コヘレトの言葉」がこの「ダニエル書」の黙示録に反論として書かれたという著者の推論が示される。
著者は「コヘレトの言葉」の成立時期を紀元前3世紀前後とする通説とは異なり、「紀元前一五〇年頃」としている(ココ参照)。その理由は、紀元前一六〇年頃に成立した「ダニエル書」と同時期、かつ「ダニエル書」より後と推測したからである。
「コヘレトの言葉」にある「何が起こるかを 誰が人に告げることができるだろう」という部分は、「ダニエル書」の黙示思想に対応して書かれている。この言葉は、「ダニエル書」に特異な「秘密を啓示する」という表現に対して、その黙示的表現を否定している。したがって「コヘレトの言葉」は「ダニエル書」の後に書かれたと著者は考えている。
知者ダニエルの使命は、神に秘密である「終末到来」を「隠された秘密を啓示する」事である。そして、それを明らかにしたのが「ダニエル書」である。
それに対して、これとは「やがて何が起こるのかを知る者は一人もいない」「死の日を支配できる人もいない」といって「神の秘密」を明らかにする黙示思想に反論している。
ここで著者は、「終末の日」という「神の秘儀」は決して人に明かされないというコヘレトの主張と同じ考え方が新約聖書にもあることを示し、さらに次のように新約聖書の立場を説明している。
新約聖書では、終末が来ることじたいは否定されません。いつかはわからないけれど、終末は来る。けれども、極端に来世に価値を置くことはありません。いつ終末が来ても良いように、現世を正しく生きよ、というのが新約聖書のスタンスです。(抜粋)
「コヘレトの言葉」には、いたるところに「終末否定」が書かれている。その理由として著者は、黙示思想は大きな問題をはらんでいるからとしている。
ここで、新約学者の大貫隆の言葉(『終わりから今を生きる 姿勢としての終末論』、教文館、1999年)を引いてその後に次のように言っている。
終末を予言し、未来を既知のものとすればするほど、今という時は空虚なものになります。終末という破局が向っているとわかれば、「今」はただ耐えるだけの通過点にすぎなくなるからです。
そうなると、人間はこの現世で何をしても意味がないと思い、無気力になります。・・・・中略・・・・生きる喜びなど感じられずに、人生は空虚なものになるでしょう。それどころか、空しさから自暴自棄になり、反社会的な企てや破壊的な行動をとる者も出てきかねません。(抜粋)
著者は、旧約聖書に「ダニエル書」だけでなく「コヘレトの言葉」が収録されたのは、異なる主張を書に両立させてバランスをとっているとしている。
このように黙示思想では、終末が来るまでの「今」はただ耐えるだけの空しい生き方になってしまう。しかし、コヘレトは、現実的で建設的な知恵を説き、目の前にある「今」を生きよと言っている。
どれほど目を凝らしてみても、「太陽の下で行われる業」は見極められません。人生は謎だらけです。しかし、「神のすべての業」が明らかにされ、来世が認識可能になるならば、人生の楽しみは失せてしまいます。だから、秘密は秘密のままにして、「日々の労苦」という現実をきちんと担うべきだ、とコヘレトは勧めているのです。(抜粋)
「コヘレトの言葉」が含まれる旧約聖書の知恵文学は、基本的に「地上でどう生きるか」を考えるものである。つまり「現世」のみを考えて死の向こう側は世界については考えていない。そのため、コヘレトは、人生の終わりをいわば「終末」と考えている。
つまりコヘレトは、歴史の終わりを否定して、「終末」なるものを、私という人間の終わり、「死」に置き換えたのです。歴史の終末を、人間の死の矮小化したといってもイイでしょう。(抜粋)
ここに出てくる大貫隆の言葉は、前に読んだ『コヘレトの言葉を読もう』にも、出てきた(ココ参照。『コヘレトの言葉を読もう』では、オウム真理教などのカルト宗教との関連でその危険性が語られていた。ここでは、そこまで書かれていないけれども、「ダニエル書」が書かれた当時のイスラエルで、同様な混乱があったのではないかと著者は推測しているようである。そのため、旧約聖書の編集者は、「ダニエル書」に加え「コヘレトの言葉」を収録して、バランスを取ったということだと思う。
それから、「コヘレトの言葉」では、「終末」が否定され、歴史はいつまでも続くとされている。このことは、終末を肯定しているキリスト教の立場では、ちょっとまずいわけである。そのため、ここでは新約聖書での立場を挟み込んで説明している。
コヘレトの「終末否定」ついては、『コヘレトの言葉を読もう』では、「コヘレトはあくまで旧約時代の知者です。そこに「コヘレトの言葉」の限界があります」(ココ参照)と説明している。本書では、そこをさらに詳しく、知恵文学はあくまで「現世」をどう生きるかを説いている、のだとしている。
このあたりは、キリスト教徒でないボクとしては、それほど気にならないといえばそうなのですが、何とはなく、それ自体が即ち「神の秘儀」で人には決して明かされない秘密の部分なのではないかと思ったりした。(つくジー)
関連図書:大貫隆(著)『終わりから今を生きる 姿勢としての終末論』、教文館、1999年
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