「何事にも定められた時がある」
小友 聡『コヘレトの言葉を読もう』より

Reading Journal 2nd

『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第3章 何事にも定められた時がある
コラム 「霊」と「息」

神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
(コヘレト3.11)
[新共同訳]
神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。
[聖書協会共同訳]

「コヘレトの言葉」の第3章には、「何事にも時がある」という名言で有名な「時の詩」がある。「時の詩」は、「生まれる時、死ぬ時」ではじまる14回の対句表現が続いる。そして、全体で人生を網羅している。

人生には、どんなに求めても、どんなにあがいても手中にできない「時」と気があり、またどんなに避けようとしても、避けられない「時」があります。何事にも時があるとは、人生をつぶさに体験したコヘレトの時間なのです。(抜粋)

ここで、重要なのは、この「時」は「カイロス」と言い換えることができるということである。

カイロスとは時計では計ることのできない質的な時間です。一瞬であり、また永遠でもある。「時」です。神が介入する「時」です。そういう「時」というものが確かにあるのです。(抜粋)

神はすべてを時宣にかなうように作り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。
(コヘレト3.11)
[新共同訳]
神はすべてを時に適して麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。
[聖書協会共同訳]

コヘレトは、神は総ての時を支配して「永遠を思う心」を人に与えたが、人は神のなさる業を「見極めることは許されていない」と語る。
「すべてに時がある」があるが、この「時」は「カイロス」であるため、それを人は到底知ることはできない。そしてこの「永遠」といってよい「時」=「カイロス」は、過ぎ去ってからようやくそれに気づかされる。この「一瞬」である時は、一瞬だからこそ「永遠」と言える。(愛する人との最期の別れは、一瞬だがそれは永遠とである。)

人間はまるでカイロスの後を追いかけるようにして生きています。どんなに「時」をつかもうとしても、決して「時」をつかむことはできないのです。「時」は隠されています。「時」は私たちにとって秘儀です。(抜粋)

「時の詩」は、最初と最後に「定められた時がある」(1節、17節)という同一の表現に囲まれているが、その中心部には、「人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ」(12節)「人はだれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは神の賜物だ」(13節)という言葉がある。この言葉は、快楽主義を唱えているのではなく、時は人間にはとうてい捉えきれないという悲観的な限界認識をしたうえで、地上の人生を肯定しているのである。
コヘレトは、時は過ぎ去ってから分かるものだからこそ、今この時を無駄にしてはならないと説いている。

時が不可知だということは、人を不安にし、無力感とペシミズム(悲観主義)をもたらすかもしれません。けれども、時はいつでも限られているのです。コヘレトにおいて、人生はあとわずかという認識があります。生きられる時間は短いのです。その限界認識において、残る時間をどう生きるかが決定的に重要になります。時は短ければ短いほど、掛け替えのない時間となるのです。そのとき、「時」は私たちにとってただ受け取るしかない神の恩寵なのです。(抜粋)

この部分は、どうとらえて良いのかなかなか難しい。ただ、ここでの「時」は、一瞬でもあり永遠でもある「カイロス」と捉えると、読み方が変わってくるように思った。(つくジー)


コラム 「霊」と「息」

ここで、コラムとして「新共同訳」と「聖書協会共同訳」での訳語の違いについて書かれている。
ヘブライ語の「ルーアハ」は、「新共同訳」では「霊」と訳され「聖書協会共同訳」では「息」と訳されている。「ルーアハ」は、どちらにも訳すことができる語であるが、「霊」と訳す場合は、ギリシャ的な霊肉二元論的に捉えられる。しかし、コヘレトは旧約の創造論に根差していると考えると、創世記で、「土で出来た人の鼻に神が「息」を吹き入れた時、生きる者になった」などの話より、この語を「息」と訳すのが適当である。

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