『ゴッホ<自画像>紀行』 木下長宏 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
エピローグ 自画像の人類史を駆け抜ける
いよいよ、『ゴッホ<自画像>紀行』も最終段となる。今日のところは、エピローグ 自画像の人類史を駆け抜けるである。
まずエピローグでは、自画像の人類史という観点からゴッホの自画像の再点検をしている。
画家が絵を制作しようとしているとき、誰でも、「歴史」を制作意識の糧としている。(抜粋)
著者はこのようにエピローグを書き始めている。そして、人類史という観点から「自画像」を見ると、人類が自画像を描いたり鑑賞をしたりするのは、ヨーロッパではルネッサンス時代からであるとしている。そして、その時代を「自画像の時代」とするとそれ以前の自画像を必要としなかった時代、「自画像以前の時代」が長く続いている。
何がこの「自画像の時代」と「自画像以前の時代」をわけるのか、それについて著者は、
人間が生きていくことは、「自己」と「世界(この世、自然)」の関係をどのように理解し、処理していくかということにほかならないが、この「自己対世界」の関係意識が、古代の人びとにあっては、ルネッサンス以降の人びとと大きく異なっていたのである。(抜粋)
としている。つまり
- 「自画像以前の時代」(古代)・・・「世界=天=神」と「自己」が調和することを願う
- 「自画像の時代」(ルネッサンス以降)・・・「世界」と「自己」の調和を疑い、「理性」で「世界」を理解したいと考える。「理性」が「神」の位置を奪い「自己」と「世界」は対立する。
ということである。そして、ルネッサンス以降では遠近法や解剖学など、絵画の世界でも「理性」で「世界」を理解する方向が強まっていく。
こうして、人類は「自己」を「世界」の物語の主人公にする絵画、すなわち「自画像」というジャンルを開発した。「自画像の時代」である。(抜粋)
そして、産業革命以降の現代では、
「人間」は、「自己」を対象に据えて「自画像」を描こうとしても、いったい本当の「自己」はどれなのか。明確な答えが見つけられない時代に入ったのである。これが、「自画像以降の時代」である。(抜粋)
としている。
このように人類の「自己」対「世界」の対立を「自画像」を通して分類した後、ゴッホの自画像と関係について解説する。
まず著者は、ゴッホが自画像を描かなかったオランダ時代を、「自画像以前の時代」と対応させている。貧しい人への共感を描くことを目指し、純粋な信仰に身をささげている人間には、自画像は必要が無かった。
そして、パリに行ったゴッホは、彼の信仰はキリスト教から離れより普遍的なものへと変わっていった。画家としての自信も大きくなり、「自己」を自在に対象化しようとする。つまり「自画像の時代」に対応する。しかし、アルル時代の発作により、ゴッホは「自画像以降の時代」に追いやられてしまう。
「自分」の居場所がどこか分からない。「自分」を支えてくれたなにかを探そうとして「背景」を描く、サン・レミの「星月夜」[図63]に描いたうねる夜空の渦と小さく突っ立つ教会の尖塔の構図は、彼の病から立ち上がろうとする意志を描いた自画像[図62]に引き継がれている。この自画像の背景は「星月夜」の夜空そのものであり、自分の姿の背後には、小さな教会の尖塔が隠れている。いや、隠れていて欲しいと祈りつつ、彼は自分の像を描いている。(抜粋)
そして著者は、ゴッホは、短い人生のなかでこのような人類の美術史の諸時代を駆け抜けて、さらには「自画像以降の時代」をも予告したとしている。
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