『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 日本軍隊の特質 – 5 降伏の禁止と玉砕の強制(前半)
第三章最後の節は、「降伏の禁止と玉砕の強制」である。
日本陸海軍にとっての最大の特徴は、日本軍には降伏がない、日本軍人は捕虜にならない、という建前を堅持していたことである。(抜粋)
著者は、このようにこの節を始めた。
ここでは、まず日本の捕虜政策の変遷を説明している。
明治初期からの日本は国政的地位の向上を目指し、西洋並みの文明国になることを望んでいた。そのため、一八九九年のハーグ条約に調印批准する。そして、陸海軍将校の教育でも国際法を教えていた。これにより日清戦争・日露戦争時においては、捕虜の処遇が正しく行われていた。
しかし、第一次世界大戦中に、このような捕虜の優遇政策に対して、日本兵の待遇に比べても良すぎ、捕虜は不名誉だという日本の観念に反するという批判が起こった。これにより、日本の捕虜政策は大きく転換する。
この転換の理由は、
- 精神主義を強調するようになった結果、日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜を恥辱とする思想を広げたこと。
- 大戦後日本の国際的地位の向上があり、もはや文明国に並ぼうと努力する必要が無くなったこと。
などである。
このことは、国際会議への対応にも表れ、一九二九年のジュネーブ条約の改正のための会議では、日本は「捕虜の待遇分科会」で捕虜の待遇が過度に好遇にならないように対案を出す。しかしこれは否決されてしまう。結局、ジュネーブ条約は調印したが、批准はしなかった。
このような捕虜政策の転換が、日中戦争において鮮明となる。日中戦争では、日本は宣戦布告せず、これは戦争でなく事変であるという立場をとる。そして、国際法は適応せず「俘虜(=捕虜)」という名称は使わないとした。これは捕虜を作るなと言う命令に受け取られ、捕虜の大量殺害に通ずることになる。
日本軍の捕虜は無いのだから、国際法による捕虜の待遇は優遇にすぎる。まして素質の劣る中国軍にそんな待遇をする必要などない。こうした考え方が、三七年の南京大虐殺の背景にあったのである。(抜粋)
つぎに、日本軍が捕虜禁止を明文化したのは、一九四一年の東条英機陸相名の戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱めを受けるな」という言葉であるが、それ以前から当然のこととなっていた。この捕虜禁止は、捕虜となることを禁じた伝統的な観念に加えて、状況によっては死刑になる陸軍刑法の規定が強く作用していた。
この捕虜になった人が帰還した後に重罪に処せられることは、軍隊の中で知れ渡っていて、いったん捕らえられると、帰還を拒否して相手側に留まるものも多かった。
ノモハン事件の捕虜で、そのままモンゴルやソ連に永住した元日本兵が相当数に上がっていることは、たびたび報じられている。たとえば楠裕次『ノモンハン事件って何だったのか』では、「たしかに存在する残留捕虜」という章を立てて、多くの事例を紹介している。戦陣訓はこうした既成事実を明文化したという意味を持っているといえよう。(抜粋)
関連図書:楠裕次(著)『ノモンハン事件って何だったのか』
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