孫権政権と周瑜 - 周瑜伝(その2)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 周瑜伝(その2)

今日のところは「周瑜伝」の“その2”である。“その1”では、呉の孫氏の初代孫堅の生涯と二代孫策と周瑜の出会い及び孫策の死までが取り扱われた。ここからいよいよ孫権が登場する。まずは、孫権の登場と周瑜、そして曹操との「赤壁の戦い」前夜までをまとめることとする。それでは読み始めよう。

孫権政権と周瑜

孫権の登場

孫策の死後、後継いだ孫権はまだ19歳だったため周瑜の責任は格段に重くなる。周瑜張昭と共に孫権を補佐し、軍事・政治両面にわたり指導的役割を果たしていく。

周瑜は、他の武将が孫権に対して礼を失することがないように、自身が丁重な態度を取った。また、孫策の死後に魯粛が北へ帰ろうとしたときに、

「現在の世の中では、主君が臣下を選ぶだけでなく、臣下も主君を選ぶのだ。わがご主君(孫権)は賢者に親しみ立派な人物を大切にされる方だ」(抜粋)

といって、説得し引き留めた。孫堅も張昭が「魯粛はほら吹きだ」と嫌っても、魯粛を信頼し続けた。

孫策と周瑜の関係は、同士的感情に基づくものである。そして、周瑜が孫権を盛り立てるのは、愚直な忠義心ではなく、孫権にそれだけの価値があると見込んだからである。

あえていえば、孫策から孫権へと受け継がれた。若い孫氏政権の最大の特徴と魅力は、周瑜に見られるこうした明快な認識と主体性にある。彼らは主君のために戦うのみならず、自分自身のために戦うのだ。(抜粋)

若いころの孫権もまた英明であった。容貌も紫髯碧眼しげんへきがん」(目が青くヒゲは紫)であり威圧感も十分だった。確かに孫権には孫策のようなひらめきに欠けていたが、人の意見を良く聞きバランス感覚に優れていた。その意味で江東の豪族連合政権の性質を持つ呉政権の後継者には適任者だった。

孫権は、兄の代からの長老張昭師傅しふ(助言役)として礼遇するとともに、周瑜程普に軍の指揮を任じると共に、諸葛瑾しょかつきん諸葛亮しょかつりょうの兄)や魯粛などの有能な人を招いて政権の基盤を安定化させた。

曹操の人質要求

建安七年「官渡の戦い」で袁紹を撃破し、華北を統一した曹操が、息子を人質として差し出すように孫権に要求してきた。息子を人質に出したくない孫権に対し、張昭らシビリアンは慎重論を取り、ひとまず人質を差し出した方が良いという意見だった。

迷った孫権は、周瑜を連れて母の元に行き周瑜の意見を聞いてから決断しようとした。そして、周瑜は人質など出さなくて良いという意見だった。もともと周瑜びいきの母は、孫権に兄同然の周瑜の言葉に従うようにと言い聞かせた。

周瑜は自立の思想の人であり、相手がどんなに強力であろうとも、身を屈することを潔しとせず、敢然と立ち向かっていく。そこが身をして自ら戦い、戦場をかけめぐる周瑜と、安全地帯に身をおいて政治的配慮をめぐらすしか能のない、張昭らシビリアンとの、最大の相違である。(抜粋)

曹操の要求を蹴ったことにより、孫権政権は、基本的に曹操と対決する路線となった。その後、孫権は父の仇の黄祖を攻め落とし、荊州攻略への端緒をつかんだ。


ここで、呉政権について「豪族連合政権」と書かれているが、これについては、ココを参照してくださいね。(つくジー)

曹操との対決

孫権が荊州をうかがっていたころ、北中国を制覇した曹操が、天下統一を狙って荊州に大軍を率いて進撃を開始した。荊州は、支配者の劉表が亡くなり、後継者の劉琮りゅうそうは、怖気づいてたちまち曹操に降伏してしまった。

この時、劉表のもとに身を置いていた劉備は、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲ちょううんらと共に南へ向かって退却するが、曹操軍に追いつかれ壊滅的な打撃をこうむった。史上名高い「長坂の戦い」である。この時は、張飛及び趙雲の活躍により何とか生き延びた。

劉表の死後、呉の魯粛が、劉表の弔問の名目で荊州情勢の偵察に出発した。そして、途中で長坂から敗走してきた劉備主従と出会った。もともと魯粛には、長江を挟んで魏と呉が天下を分ける「天下二分の計」という持論があった。これは、諸葛亮「天下三分の計」と発想が同じであるため、魯粛と諸葛亮は大いに意気投合した。

そして、荊州を押さえた曹操の次の標的は呉であることは明白であるため、魯粛は劉備と手を結んで曹操軍と対抗するしかないと考え、諸葛亮を伴って孫権のもとへ戻っていった。

そのころ、曹操から「わが軍が南下するや、劉琮は無抵抗で降伏した。こんどは八十万の水軍を整え将軍あなたと呉で狩猟をしたいと思う」という書状が届き、この降伏勧告を巡って孫権陣営は大騒動となっていた。

ここでも、張昭らシビリアンは、降伏論を主張し、主戦論の魯粛は、シビリアンに評判が悪いこともあり沈黙を守っていた。諸葛亮は、主戦論を唱え、もともと主戦論の孫権を支持したが、降伏論が大勢を占めていた。

孫権は、頼みの綱は周瑜だけだと思い、駐屯地から呼び寄せた。周瑜は、曹操軍は中原を基盤としているため、騎馬を捨てて船舶を用いても、呉越のものにかなうわけない。現在は極寒の季節であり、遠く水郷地帯をさまよえば必ず疫病にかかるだろうと言い。慎重論者たちをやり込めた。そして、孫権は最後の決断をする。

言い終わると、孫権は自分の決断をアピールするために、刀を抜いて目の前にある机に切りつけ、「今度、曹操に降伏せよという者は、この机と同じ目にあうぞ」と見栄をきった。(抜粋)

初出掲載誌:(「歴史群像」九三年十月、学研)

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