「インパール作戦」(その2)
藤原彰『餓死した英霊たち』より

Reading Journal 2nd

『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 餓死の実態 – 4 インパール作戦(後半)

ここより、インパール作戦及びその後のシッタン河渡河後の転進の経過に移る。著者は、豊富な資料を元に、その飢餓地獄の様子を描いている。

インパール作戦
このような経過の後(ココ:参照)三月八日にインパール作戦は始まった。携帯食料二週間分を持った第十五軍は、チャドウィン河を渡って、攻撃を開始する。しかし、食料は無くなり弾薬も不足し、攻撃は予定通りには進まなかった。
そして、牟田口はこれに憤り、左翼の第三十三師団長の柳田元三中将、中央を進んだ第十五軍師団長の長山内正中将を罷免した。そして、

最右翼を進んだ第三十一師団の佐藤幸徳中将は、インパール北方のコマヒを占領したが、軍からは約束の補給はまったくなかった。佐藤中将は「米一粒も補給がない」ことに怒り、食料があるところまで後退するとして独断で退去した。佐藤中将は抗命の容疑で罷免の上、軍法会議にかけられた。佐藤はあえて牟田口の責任を問おうとしたもので、結局は精神錯乱ということで片づけられた。(抜粋)

このように三人の師団長を罷免してまで続けた作戦は、補給もなく悲惨な状態であった。
七月三日に、大本営もようやく作戦の失敗を認めて中止命令をだす。そして、雨期に入ったアラカン山系の密林を抜けた退却は、さらに悲惨だった。著者はいくつもの史料を引用してその悲惨な状況を伝えようとしている。

遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の屍があり、その数はだんだんと増えてきた。石ころの難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重傷の兵たちが三々五々屯していた。
水をくれ、連れていってくれ、と泣き叫び、脚にしがみついて放れないのだ。髪は伸び放題にのび、よくもこんなにやせたものだと思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。息をついているが、さながら幽霊だった。
・・・・・(中略)・・・・・
途中、灌木の中にひそんだ盗賊にやられた兵が、腹部を至近弾でやられ、雑嚢が散乱している姿を見た。
戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。生きるためには、味方さえ殺し合うのだ。われわれも、恥もなく屍についた雑嚢を探したのだが、食い物はなにひとつはいっていなかった。おぞましい非人の仕業もあきらめ、歩いては休み、休んでは歩き、体内に残る生命の焔をかきたて、生きていようとする苦行だけはつづけた。(抜粋)

そして、兵士の屍が続くこの退却の道は、「靖国街道」、「白骨街道」とよばれた。

その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である。(抜粋)

シッタン河谷の後退
ビルマ戦最終段階での第二十八軍のシッタン河渡後の転進も、インパールの退却にもまして悲惨だった。終戦間近の頃、連合軍の攻勢のため第二十八軍は、ペグー山系内に取り残され、独力でシッタン河を渡って退却することになった。この退却路は、「屍臭の道」と呼ばれ多くの日本兵が行き倒れになった。

当時、靴の損廃がひどかたので、誰もが靴に困っていた。路傍に、それまで穿いてきた自分の靴を並べ、戦友に使ってくれと訴えるようにして死んだ兵もあり、道行く将兵の涙を誘った(抜粋)

ビルマ戦線での死没者の割合
このようにビルマ戦線では、多くの犠牲者がでた。著者はこの戦線での死没者の割合を、史料をもとに次のように推測している。

・・・・前略・・・・
この割合をビルマ戦線の全体に割り当てると、戦没者一八万五〇〇〇名の七八%、ほぼ一四万五〇〇〇名が病死者であったということができよう。病死は栄養失調死と、体力の低下によるマラリア、赤痢、脚気などによる死亡で、広い意味で餓死といえる。激戦地のビルマでも、戦死より餓死が多かったのである。(抜粋)

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