「新しき芸術[アール・ヌーヴォー]」の都 —Nancy(ナンシー)
池上 英洋 『フランス 26の街の物語』より

Reading Journal 2nd

『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

Chapter 2 芸術の物語 / 「新しき芸術[アール・ヌーヴォー]」の都 — Nancy(ナンシー) 

アール・ヌーヴォーの誕生

芸術は誰かが言い出したわけでもないのに、離れた地点で同じような様式が同時に起こることがある。その典型的なものが「世紀末芸術」である。もちろんそれには、産業革命や古典主義、ロマン主義の潮流、中産階級の発展など幾つかの動因はある。

この「世紀末芸術」のなかに、ベルギーとフランスを中心とする「アール・ヌーヴォー(新たな芸術)」がある。直接的にはサミュエル・ジークフリート・ピングが開いた店名に由来する。このピングは世紀末に新たな芸術の思潮の「ジャポニズム」の起点を創り出した一人である。彼は日本美術の輸入販売をはじめ、日本美術を内容とする『Le Japon artistique(日本美術、芸術の日本)』という雑誌を発行した。また、日本政府の後押しをしてパリはウィーンの万国博覧会に出品を助けている。

アール・ヌーヴォーの都市ナンシー

フランスにおける世紀末芸術の中心がアール・ヌーヴォーであり、その中心地はパリナンシーだった。

パリでのアール・アール・ヌーヴォーは、地下鉄の入り口に見られる。ギマールがデザインした金属とガラス素材の有機的はデザインの入り口はパリ万博のために整備されたものである。

もう一方のナンシーは、街全体がアール・ヌーヴォーである。街を歩けばアール・ヌーヴォー調の建物が目に入り、街全体がアール・ヌーヴォーである。ナンシーはロレーヌ公国の中心都市であったが、ロレーヌ公をポーランドとリトアニアの王スタニスワフ一世・レシチンスキーが兼任する。彼はロレーヌ公国がフランス従属下に入るための傀儡の君主だった。そのためスタニスワフは、政治的な実権はなかった。しかしナンシーの美化には情熱を傾けた。

彼が建築家エマニュエル・エレに作らせたスタニスラスニは壮麗な光輝く門がある。この門は、工芸家ジャン・ラムールの装飾で飾られている。そして普仏戦争後にナンシーに金属とガラス産業が一気に活性化する。ドーム兄弟のガラス細工は、パリ万博に出品され人気を博した。そして、アール・ヌーヴォーの中心的存在となるエミール・ガレはナンシーに生まれた。彼の作品は、それまで工芸品の構成要素としてほとんど用いられてこなかった昆虫や植物を多用し、金属とガラスが溶け合うかのように融合している。

そして、一九〇一年にガレを中心に、エコール・ド・ナンシー(ナンシー派)が設立された。そのナンシー派の一人であるルイ・マジョレルは、建築家でもあり室内空間を統合的にデザインするインテリア・デザイナーの走りでもあった。他のメンバーには、アントナン・ドーム、家具デザイナーのウジェーヌ・コルバンなどもいた。コルバンは、百貨店を営む実業家でもあり、ナンシー派の一大コレクターでもあった。

このマジョレルとコルバンに邸宅は、マジョレル邸ナンシー派美術館として、現在もアール・ヌーヴォーの製作機会を提供している。

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