『忙しい人のための美術館の歩き方』 ちいさな美術館の学芸員 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第2章 美術鑑賞の変遷 2 展覧会の歴史 ヨーロッパから日本へ
今日のところは「第2章 美術鑑賞の変遷」の第2節「展覧会の歴史」である。第1節では、ここ10年でヒットした展覧会を振り返り、どのような展覧会が、普段から美術館に来ない人でも来てくれるのかを考察した。第2節では少し角度を変え、展覧会の歴史について解説される。そしてそれは、美術の歴史、アーティストの歴史でもあり、ヨーロッパからやがて日本にも伝わったことが分かる。それでは読み始めよう。
ここでは、「展覧会」、つまり美術作品が陳列され、それを不特定多数の人が鑑賞するという制度の発祥や日本への伝来について解説し、展覧会の役割を考える。
展覧会以前の特権階級のための美術
かつて美術はごく限られた特権階級にだけ許された娯楽であった。中世ヨーロッパでは、パトロンが作品を発注することでアーティストを支えた。つまり、もともとアーティストの制作はつねに受注方式だった。
つまり、アーティストは常に誰か(教皇、君主、資産家)にためか、何か(礼拝堂の壁画、祭壇画、教会の彫像)のために制作をしたのです。(抜粋)
その意味で、この時点ではアーティストは職人であり工房を構えて集団で制作するのは当たり前だった。
展覧会の誕生
この構造を崩すきっかけとなったのが、そう、展覧会の登場です。(抜粋)
フランスではルイ14世の治世に、絵画・彫刻アカデミー(通称「アカデミー」)が創設された。アカデミーにより、ギリシャ・ローマ彫刻やルネッサンス絵画を理想とする体系的な教育が行われた。このような古典美術の技法や様式を遵守するスタイルが、正統派という意味でアカデミーと呼ばれるようになる。
そして、18世紀になるとアカデミー会員たちの発表の場として、展覧会が定期開催されるようになる。このアカデミーの展覧会は、やがてルーヴル宮殿の一室サロン・カレ(方形の間)で開かれる世になり、一般にサロンと呼ばれるようになる。このサロンは、入場無料で一般の人たちにも公開された。これにより、一般大衆も美術を楽しむことが出来るようになる。
展覧会とアーティストの誕生
こうした展覧会の誕生によって大きな変化が生まれました。(抜粋)
これまで、アーティストと注文主は一対一の関係だったが、この展覧会の誕生によって、アーティストは不特定多数の人に向けて作品を発表するようになる。作品は多くの中から審査され評価される。そして必ずしも創作が収入と直結しなくなったことも大きな変化である。また、職人とアーティストは完全に分離し、これまで画家も彫刻家も工房を率いて職人的立場で活動していたが、個人の名前を全面に出してオリジナリティーを重視する意識が芽生えた。
そして何よりも注目すべきは、アーティストの創作の動機として、自己表現という意味合いが強くなった点です。(抜粋)
不特定多数の人に向けて作品を発表することになると、誰のためでもなく自分との対話を通して、内面性を表現するのがメインテーマとなる。
以上のことをひっくるめて言うと、展覧会の誕生は(今の私たちがイメージする)アーティストの誕生でもあったのです。(抜粋)
日本での展覧会の発祥
このヨーロッパで起きた変化が100年以上遅れて日本にもやってくる。
江戸時代では、日本も中世のヨーロッパと同じく基本的には美術は誰かのため、何かのために制作されるものであった。そして絵を描く絵師は、職能集団であり、基本的には注文を受けて制作いていた。ただし浮世絵は不特定多数の大衆を対象にしているという意味でやや例外である。
そして明治時代になると、この美術を取り巻く制度や意識に変化が生じる。その一端を担ったのが展覧会である。この展覧会開催のきっかけとなったのは万博博覧会である。日本が出品した陶磁器や漆器はヨーロッパで高く評価され、政府は需要があることを認識する。そして殖産興業の一環として海外向け工芸品の生産を促進するために内国勧業博覧会を開催した。これが、日本で最初の展覧会であり、その建物の一つに「美術館」という名前が付けられた。
日本もまた展覧会の登場がきっかけとなって美術を取り巻く環境や意識がガラガラと音を立てて変わっていくことになります。(抜粋)
日本での展覧会の発展
この内国勧業博覧会はその後も繰り返し開催された。さらに農商務省主催で伝統的な日本画を対象にした内国絵画共進会も開催される。その後日本美術協会、鑑画会、日本青年絵画協会、日本絵画協会、日本美術院、明治美術会、白馬会など様々は、美術団体が展覧会を開催するようになった。このような展覧会は、広く一般大衆にも公開されたため、徐々に展覧会に行って美術鑑賞をすることが普及した。
そして、ヨーロッパと同じく日本でも、美術は「不特定多数の人に向けて発表する」前提で制作するものになり、「創作=自己表現」という考え方も広がっていった。
そして、1907年に文部省美術展覧会(「文展」)が開催されるようになる。さらに1919年には、文部省下に帝国美術院が創設された。これはフランス王立美術アカデミーを手本としていて、フランスのサロンとアカデミーの二つの制度が日本に導入されたことになる。
この文展は、日本美術に大きな影響を与えた。文展は当初日本画、西洋画、彫刻の三部門であり、この三つのジャンルが美術といえるという認識が広く普及し、反対にそれに漏れた、陶磁器、漆器、染織品などは展覧会に出品できず、工芸という分類となる。
この文展はフランスのアカデミーと同じように権威を持つようになり、文展で入選することが美術の王道となる。この文展は形を変えながらも今でも画壇の権威となっている。
以上のように、展覧会という制度とその舞台としての美術館の誕生が、ヨーロッパでも日本でも美術の枠組みを作ることにつながりました。つまり、今私たちが美術館に行くのも、ある意味で「こういうものが美術なんだ」「ここに作品を発表する人がアーティストなんだ」という共通認識を形成する行為と言えるのです。(抜粋)

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