神の呼びかけ(後半)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

一四 神の呼びかけ(後半)

今日のところは「一四 神の呼びかけ」の”後半“である。”前半“においていよいよ神が現れた。神はヨブに「腰に帯して男らしくせよ」「わたしに答えよ」と命令した。前半では、神の呼びかけの第一の問題であるヨブが義しいか、神が義しいかを取り上げた。

そして、今日のところ”後半“では、第一の問題第二の問題・神がヨブを慰めなかったこと、さらに第三の問題として、ヨブ記の背景としての「創造の秩序」「保存の秩序」の問題が取り上げられる。それでは読み始めよう。

人間の裸の自覚と原罪

前半”の話を受け、著者は、神の呼びかけについて今一つ付け加えたいことがあると言っている。

それは、プロローグにあるヨブが「裸で母の胎を出たのだからまた裸でかしこに帰る」ココ参照)とあったそのである。

人間の裸の自覚はまた原罪の自覚でもあり、運命の自覚と見ることができよう。それはまたエゴイズムの自覚でもある。何故人間はそのようなものとして一生その重荷を背負わなければならぬのであろうか。(抜粋)

人間は神によって造られた、それはエゴイズムという原罪を持ったものとして作られたということである。アダムとエバにとって蛇の誘惑はほとんど不可抗力であった。しかし、そのため彼らは神の禁令を守らなかったという責任を問われる。

このような矛盾こそ人間が人間であり、動物や、機械とは異なる存在である理由があるのだと思われる。(抜粋)

律法的な存在としての人間と「偶然」

そして人間が神に造られたということは、律法の下に立ちべく造られたということである。人間の自由意思も人間が律法的存在として造られたことを外しては意味をなさず、このような人間には「偶然」というものは根本的にはあり得ない

キルケゴール『愛のわざ』において

「律法のみが自由を与え得る。ああ、人はあまりにしばしば、自由が存在するのに、この自由が律法によって束縛されるのだからと考える。しかし事実はまさにその反対である。律法なくしては自由は存在せず、律法こそ自由を与えるのである。」(抜粋)

と言っている。

そのため、旧約聖書には「偶然」と訳されている語は一箇所(サムエル記上六ノ九)しかない。

しかし、伝道の書(コヘレトの言葉)には、同じ原語が「運命」「臨むこと」と訳されて六回出てくる。そして、これらはどれも「偶然」を意味する。

この伝道の書(コヘレトの言葉)に「偶然」という言葉が出てくるのは、この書では時間が循環的に考えられているためであり、「伝道者」の世界は空であるからであると考えられる。そして著者は、この偶然という語が、伝道の書に多く出てくることは注目すべきことであると指摘している。

へブル本来の思想によれば、この世界は矛盾に満ちているのであるが偶然はない。何となれば神が責任をもって、この世界を創造しまた支配しているのであるから、人間もまた責任をもってそれに応えて行かなければならない。そこに偶然の起こる余地がないのだといえるのではないか。(抜粋)

人間の責任と神

ここで著者は、最後においてヨブに責任を問うているか?そしてヨブはそれにどう答えようとしているか?という問いをしている。そして人間の「責任」について考察する。

創造の神に対し人間が責任ある応えをするとは、我々の場合としても如何なることか。それは一言にしていえばこの世界に起こるさまざまの出来事に対して傍観的態度を取らぬということであろう。(抜粋)

この世の中の出来ごとの大半は直接我々の責任ではなく、それを理解して解決するのはほとんど不可能である。しかし、自身の身近に起こることをまじめに取り上げて解決を求めていく態度にこそ偶然がその姿を消すのではないだろうか。また、そこから我々が直接責任と思われる者に対して責任を負わされているのである。

そのことこそ人間が世界創造の神に支配の下に立っているということを意味する。(抜粋)

ヨブの不幸もこのような立場に立たない限り真の解決にならない。自分自身の不幸を嘆き悶えるだけであれば、それは傍観的な態度であり、主体的ではない。

我々が一見責任ならざる責任を負うているというところにこそ、却って人間が主体的に生きる生き方があるのであり、それが人間の神の像に創造されたということの意義ではないであろうか。況んや明らかに自己の責任と思われるものでさえ、他に転化して生きんとするところにはもはや聖書的人間の姿を見出すことは不可能である。(抜粋)

第二の問題:神が慰めの言葉を口にしないこと

ここで著者は、この「神の呼びかけ」の部分に対する第二の問題点として、「神が慰めの言葉を口にしないこと」をあげている。(第一の問題点については前回のココを参照)

神はヨブに慰めの言葉をかけるのではなく、むしろ「腰に帯して男らしくせよ」(三八ノ三、四〇ノ七)と叱咤激励している。

この叱咤激励はヨブにとって思いもよらないことであったのではないかと著者は言っている。そしてその言葉によりヨブは今までの悩みから目覚めたることができた。これはアウグスティヌスのたとえ(ココ参照)にある、刺繡の裏しか見ていなかったヨブが、刺繡の表を見るにいたり、その整然とした世界に気がついた瞬間であった。

そこでヨブは主に答えて言った。
「見よ、わたしはまことに卑しき者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
わたしはすでに一度言いました、また言えません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。(四〇ノ三 – 五)(抜粋)

神がもしヨブに慰めの言葉を言ったならば、彼は目覚めずなおも神への不満を口にしただろうと思われる。しかし、神の叱咤により、彼は手を口に当てて沈黙し、再び言い争うことを放棄する。

しかし、著者は

しかし誤解してならぬことはヨブがここで自己の問題の徹底的解決をまったくあきらめてしまったのではない。別言すれば彼が運命の前に屈服したということを意味しない。それがヨブの懺悔であり、新しい出発である。(抜粋)

と注意している。

ここでのヨブはまだ、運命に屈する「諦念」であり「懺悔」ではない。この両者の違いは、そこを起点として新たなる出発をなすかどうかにある。その結果として前者には感謝奮起と云うことは期待できないが、後者には必ず感謝があり奮起を伴う。

それ故諦めて自己の運命をやむなく受け取るのではなく、神の摂理に身を委ねて失敗の都度都度また新しい出発をし直すということになる。運命と摂理、この二つの区分は微妙であるが内容的には大きな距りがあるのではないか。自己の責任において主体的に運命を受け取るときはもはやいわゆる運命ではなくなり、宿命はその暗さを失う。(抜粋)

第三の問題:世界の秩序という背景

次に第三の問題として、神の「創造の秩序」「保存の秩序」の問題がある。

三八章において、地の基、星などの自然、獅子、山羊などの動物のことが事細かに語られている。

もろもろの自然が美しく細かく語られているがこれが神学者のいう、神の「創造の秩序」また「保存の秩序」についての叙述である。(抜粋)

つまり、あらしの中から現れる神は、このような世界の秩序を背景としている。その神は、ただイスラエルの神ヤーエではなく、人間のみならず自然をも包む創造の神である。そして、その二つは異なる神でなく、同じ神である。

ヨブという一個の人間の生涯を導き、その達すべき到達点に至らしめるのだということをこの書物は教えている。そういう経過を詩として歌いあげているのが、三八 -- 四一章のいわば自然詩であるとみてよいであろう。(抜粋)

小友 聡 (著) 『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 日本キリスト教出版局 2019年

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