「ガダルカナル島の戦い」
藤原彰『餓死した英霊たち』より

Reading Journal 2nd

『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 餓死の実態 – 1 ガダルカナル島の戦い

第一章では、日本軍の餓死の実態がどんなものであったかを多くの資料を元に描き出している。まず、最初は、ガダルカナル島の戦い及びその後のソロモン群島やラバウルでの餓死の実態についてである。


餓死という言葉でまず思い浮かぶのは、ガダルカナル戦での大量の餓死者の発生である。ガ島は餓島といわれるほど、この島での餓死の状況は悲惨だった。(抜粋)

開戦二年目の一九四二年に日本軍がガダルカナル島に作った飛行場を脅威と感じた米軍は、海兵一個師団を上陸させて飛行場を占拠した。日本軍は、この飛行場の奪還のため、制海権、制空権が無い状態で、一本支隊、川口支隊、第二師団、第十七師団とつぎつぎに陸軍を送りこむ。制海権、制空権が無いため輸送船が使えず、補給は鼠輸送(駆逐艦による輸送)、蟻輸送(小型の発動艇で夜間に少しづつ行う輸送)に頼らざるを得なかった。そのため、重火器が運び込めなかった日本軍は、白兵戦法しか取れず、米軍の圧倒的な火力の前に次々と全滅した。また、そのような状態では、弾薬や食料などの補給品を送ることも困難だった。送り込まれた兵隊は自身が背負った米が無くなると食料の補給は受けられなかった。

ガダルカナル島では、上陸した3万1400名のうち、途中離島した者が740名、撤収作戦で収容された者が、9800名である。都合2万860名が失われたが、そのうち純戦死者は、5000名から6000名であり、残りの1万5000名は、病戦死であり、つまり純然たる戦死者の三倍の人数が広い意味での餓死者だった。

このガダルカナルでの飢餓の状況はひどいものであった。この状況を生き残った青年将校の記録が書かれている。

この頃アウステン山に不思議な生命判断が流行り出した。限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的あり、非人道的である生命判断は決して外れなかった。

立つことのできる人間は・・・・・・・・寿命三〇日間
身体を起こして坐れる人間は・・・・・・・・三週間
寝たきり起きられない人間は・・・・・・・・一週間
寝たまま小便をするものは・・・・・・・・三日間
ものを言わなくなったものは・・・・・・・・二日間
またたきしなくなったものは・・・・・・・・明日(抜粋)

この後、ガダルカナル撤退の後のソロモン諸島の状況が書かれている。

ガダルカナル撤退後のソロモン群島方面の状況は、ガ島の教訓を何も生かせず、補給困難な離島に兵力を送り込んで、飢餓の悲劇をくりかえすばかりであった。(抜粋)

ソロモン群島では、タロキナの米軍陣地への攻撃に失敗した後、日本軍の戦力は、完全に喪失し、以後第十七軍約3万2000、第八艦隊約2万は、飢餓と戦いつつ敗戦を迎えた。

また、南東方面の重要な戦略拠点だったラバウルは、しだいにその戦略的価値がなくなってしまう。そして、アメリカ軍の進行もあって敵の背後になってしまう。四四年六月のサイパン陥落、同10月のレイテ上陸の後は完全に孤立無援になり、連合軍側も、安易も脅威にならないこの島を攻撃せず自滅させる方針を取った。ラバウルに残る11万の陸海兵力は、飢餓との闘いがすべてとなった。
幸いなことに、ラバウルでは、現地自活に努力することで、比較的多くの人が餓死を免れて敗戦を迎えることができた。

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