憲法とそれ以外の法 — 憲法法典の変化と憲法の変化(その3)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第5章 憲法典の変化と憲法の変化(その3)

今日のところは「第5章 憲法典の変化と憲法の変化」の“その3”である。“その1”では、デイヴィッド・ストラウス「憲法改正の意味の無さ」という論文を取り上げ、“その2”でH・L・A・ハート規範の「慣行的理解」という視点の説明があった。

今日のところ“その3”では、これらの議論を踏まえて、「憲法の改正」について考察している。それでは読み始めよう。

憲法典のテクスト改正の意義の限界

一次レベルの慣行(法)を判別する専門家集団の慣行は、社会一般の意識や考え方と相互作用しあう。そして、社会の変化により二次レベルのルール(憲法)のあり方についても影響を与える。

その1”で取り扱ったストラウスの議論は、このような社会の変化が(多くの場合、憲法の正文を変更することなしに)二次レベルのルールのあり方を動かした例を示している。

このように“その2”で考えたハートの「法規範の慣行的理解」は、憲法典のテクストの改正が持ちうる意義の限界を考えるうえで示唆を与えるものである。

法の回復への欲求

そして、またなぜ人々が「憲法を改正する必要があるか」という漠然とした質問にこだわり続けるのかという点でも、示唆を与える。

ハートの理論では、近代以前の社会では、憲法が必要とされない。近代になり法を意図的に制定・改廃する必要が起こるとされている(ココ参照)。このとき法は専門家集団のものとなり、人々は自分たちが従うべき方が何かも知ることができない。その状況で

憲法を成文化し、それ自体を意図的に制定・改廃の対象としようとする動きは、失われた方を再び自分たちの手に取り戻したいという人々の欲求の表われと見ることができる。(抜粋)

憲法典の変化と憲法の変化

しかし、残念ながら、成文化された憲法のテクスト(つまり憲法典)が二次ルールたる「憲法」であるわけではない。(抜粋)

「憲法」は、そのテクストを素材に法律の専門家が紡ぎだした慣行の集まりである。そのため、テクストの改廃で必ずしも憲法は変化しないし、そもそもテクストを変えることでどう変化するかは自体も一律に答えられない

その2”で紹介されたハートの理論は、「憲法改正」の意義に関して、その意気を喪失させる。また“その1”で示されたストラウスの議論は、その応用となっている。

しかし、ここで著者は、「国民が自主的に憲法典を改正することで「憲法」を変えることができないことを意味しているわけではない」と言っている。ただ、その時にあらかじめ専門家に憲法典を変えることでどの程度「憲法」が変わるか、意見を聞く理由があると言っている。

その理由は

  1. シンボリックな改正のために無駄なエネルギーを使わないため
  2. シンボリックな改正と抱き合わせで妙な「憲法」の変化が行われないため

である。

最後に著者は、①のような「憲法を変えることにつながらない憲法典の改正」や②のような「妙な方向への憲法の変動をもたらす改正」が行われないように、どのようなものがあるか次章で紹介すると、言ってこの章を閉めている。


この章での話は、なかなか難しかった。結局、「憲法典」≠「憲法」ということ。そして、「憲法典」を変えなくても、実質的に「憲法」は変えられる(変わってしまう)、ことだと思う。

そういう意味で考えると、現在の「自衛隊を憲法に明記する」ということは、それ自体では、まったく「憲法」を変わることがないので① の論点から改正する必要な無いのだと思う。そして著者が指摘しているように②の「妙な方向に憲法が変化することも懸念される。

著者はすで「憲法改正論議を考える」(ココ参照)で、「九条改正論」について

まず、従来の政府解釈で認められる自衛権のための実力の保持を明記しようというのであれば、意味のない「改正」である。これに対して、従来の制約を超えたことを認めるための改正である場合は、軍の規範や行動をどのように制約するのかという肝心な点について明らかにしなければならない。(抜粋)

と言っていて、前半部分は①であり、後半部分が②を示しているのだろう。

そしてさらに、著者が本書で訴えているのは②の問題であると思う。それは、すでに「国を守る責務」(ココ参照)で、

九条を変更して従来の政府解釈の下での歯止めを取り払うことが、果たして「国を守る」ことになるのかという疑いが生ずることになる。現行憲法の基本原理の一つである平和主義を掘り崩しかねない危険をもっているからである。(抜粋)

と言っていて、つまり日本憲法の基本原理の一つである「平和主義」を妙な方向に向かわせないという意思があるように思った。(つくジー)

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