ユーモア感覚 — 孔子の素顔(その1)
井波 律子 『論語入門』より

Reading Journal 2nd

『論語入門』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 孔子の素顔(その1) — 1 ユーモア感覚

今日から最終章「第四章 孔子の素顔」に入る。第四章では、孔子の様々な面を捉えた話が集められている。

第四章は、節ごとに分け、さらに最終の6節をさらに2つに分けて、まとめることにする。今日のところ“その1”は孔子の「ユーモア感覚」である。それでは読み始めよう。

ユーモア感覚

No.107

子曰しいわく、道行みちおこなわられず、いかだりてうみかばん。れにしたがものは、ゆうなるか。子路之しろこれをいてよろこぶ。子曰しいわく、ゆうゆうこのむことれにぎたり。ざい所無ところなからん。(公冶長第五)(抜粋)
先生は言われた。「(私の理想とする)道は行われない。いっそいかだに乗って海に渡ろうか。(そのとき)私についてくるのはゆう子路しろ)だろうか」。子路はこれを聞いて喜んだ。先生は言われた。「由よ、おまえは私以上に勇敢なことが好きだ。だが、(いかだを作る)材木はどこから調達するのかね」。(抜粋)

逆境のなか不屈の精神を持って立ち向かった孔子だが、ときに弱音を吐くこともある。ここでは、いっそイカダで未知の国に行ってしまおうかという。一緒に来るのは子路かという呼びかけに、子路は大喜びしてしまう。そこで、孔子は、でも材木をどこから調達するのか?と子路をたしなめている。

著者は、このようなユーモアの感覚があればこそ、諸国放浪の旅を乗り越えられたのだろうと、評している。

No.108

達巷党たつこうとう人曰ひといわく、おおいなるかな 孔子こうし博学はくがくにしてしか所無ところなし。子之しこれをき、門弟子もんていしいていわく、なにをからん。ぎょらんか。しゃらんか。れはぎょらん。(子罕第九)(抜粋)
達巷たつこう村の人は言った。「偉いもんだ、孔子さまは。広くいろいろなことを学びながら、特にきまった専門家としての名声はお持ちでないのだから」。先生はこれを聞いて内弟子たちに言われた。「それでは私は何の専門家になろうかな。御者ぎょしゃになろうかな。射手しゃしゅになろうかな。やはり私は御者になろう」。(抜粋)

達巷たつこう村の人が、孔子が限定された狭い分野で名を成すことを求めず、広く学んで博学多識であることに驚嘆する。ここで、我が意を得たりと、孔子が言った言葉である。

ここで孔子は六芸りくげい(礼・楽(音楽)・射(弓射)・御(馬車を駆ること)・書(書法)・数(算術))のうち、重視した礼や楽でなく、あえて身体運動に属する射と御をあげている。ここで著者は、

ユーモラスな発言ながら、ここには偏狭な専門家に対する鋭い風刺もある。(抜粋)

と言っている。

No.109

子曰しいわく、たみじんけるや、水火すいかよりもはなはだし。水火すいかみてするものる。いまじんみてするものざるなり。(衛霊公第十五)(抜粋)
先生は言われた。「人々が仁を必要とする度合いは、水や火を必要とするより激しく深いものがある。しかし、水や火を踏んで焼け死んだり溺れ死んだりする人は見かけるが、仁を踏んで死んだ人は見たことがない」。(抜粋)

仁は水や火と同じくらい必要であるということを強調するために、ここでは、(火や水を踏んで死んだ人はいるが、)いまじんみてするものざるなりという巧みな発言で、その意味を強調している。

No.110

 武城ぶじょうき、弦歌げんかこえく。夫子ふうし 莞爾かんじとしてわらいていわく、にわとりくにいずくんぞ牛刀ぎゅうとうもちいん。子游対しゆうこたえていわく、昔者むかし えんこれ夫子ふうしく。いわく、君子道くんしみちまなべばすなわち人をあいし、小人道しょうじんみちまなべばすなわ使つかやすなりと。子曰しいわく。二三子さんしえん言是也げんぜなり前言ぜんげんれにたわむるるのみ。(陽貨第十七)(抜粋)
先生が武城ぶじょうに行かれたとき、弦楽を伴奏にして歌う声が聞こえてきた。先生はにっこり笑って言われた。「鶏を料理するのに、どうして牛切り包丁を使うのかね」。子游しゆうは答えて言った。「私は以前に先生からうかがったことがあります。「君子が道を学ぶと人を愛するようになり、小人が道を学ぶと使いやすくなる」と。(だから私はこの町できちんと礼楽を実施しているのです)」。先生は言われた。「諸君、えん(子游)の言うとおりだ。さっき言ったのは冗談だよ」。(抜粋)

この条は子游しゆうが就職して、小さな町のさい(管理者)になった。そのとき孔子が様子を見に行った時の情景である。

そのとき、弦楽を伴奏にして歌う声が聞こえてきた。これは子游しゆうが小さな町に正式な礼楽の教育をしていたからである。孔子は、にわとりくにいずくんぞ牛刀ぎゅうとうもちいん」とからかって言った。

すると、子游しゆうが、まじめに反論してくる。すると孔子は、「さっき言ったのは冗談だよ」と自分の失言を認めた。

著者は、ここで、あやまてばすなわあらたむるにはばかることかれ。(過ちをおかしたならば、ためらわずに改めよ)」NO.72)を実践していると、言っている。

No.111

子曰しいわく、くまでらいてえ、こころもちうる所無ところなきは、かたかな博弈はくえきなる者有ものあらずや。れをすはむにまされり。(陽貨第十七)(抜粋)
先生は言われた。「一日中たらふく食べて、まったく頭を使わないというのは、困ったものだ。はく(すごろく)やえき(囲碁)というものがあるではないか。これでもやっているほうが、何もしないよりはましではないか」。(抜粋)

この条で孔子は、無為徒食をしている弟子に、何もしないならばゲームでもしてなさい、と叱っている。これに対して著者は、「孔子は本当に面白い人である」と評している。

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