[再掲載]「もうひとつの「逆転」」(紅楼夢)
井波 律子『中国の五大小説』(下)より

Reading Journal 1st

『中国の五大小説』も5作品目になりました。そう『紅楼夢』です。上巻の最初に書いたように、この本、井波律子の『故事成句でたどる楽しい中国史』にあった『紅楼夢』の話(ココ参照)が、再掲載の理由です。よしよし、やっと来た…て感じですね♬


関連図書:
井波律子(著)『故事成句でたどる楽しい中国史』岩波書店(岩波ジュニア新書)、2004年
井波律子(著)『「中国の五大小説」(上) 三国志演義・西遊記』、岩波書店(岩波新書)、2008年

(2025年8月2日)


(初出:2009-04-26)
「中国の五大小説」(下) 井波律子 著

『紅楼夢』の巻 — 「美少女の園」のラディカリズム — もうひとつの「逆転」 — 警幻仙姑の夢幻境

この本が最後に取り上げるのは、『紅楼夢』である。これは『金瓶梅』が著されてから約百五十年後の十八世紀中頃の清代に、曹雪芹そうせつきんによって著された。

『紅楼夢』は、最初に「書かれたもの」として、中国白話長篇小説に新たな世界を切りひらいた『金瓶梅』を踏み台としながら、これを徹底的に浄化し、比類なく精緻な物語世界を構築した、中国白話小説の金字塔というべき作品であり、これを超える長篇小説は今なお中国で書かれていないのではないかと思われます。

『紅楼夢』は、『金瓶梅』と異なり、洗練の極みたる大貴族の家を舞台としている。中心人物の賈宝玉かほうぎょくのまわりには、高い教養を持つ美しい少女たちがつどい、複雑な人間関係を形成する。

作者の曹雪芹は、この賈家を思わせる家系の出身であった。曹家は、皇帝と直結する重要なポストを歴代世襲した。彼の祖父の曹寅そういんの時、曹家は絶頂をむかえ、途方もない財を築く。しかし曹寅が死んだ十年後、庇護者であった皇帝が亡くなり、一転して悲運に見舞われる。次の皇帝は曹寅の後継者たちを公金の使い込みのかどで摘発し全財産を没収してしまう。

幼かった曹雪芹も華麗な生活から一朝にして貧窮のどん底に突き落とされた。以後彼は無位無官で貧しいくらいに耐えながら『紅楼夢』を書きつづけた。

『紅楼夢』は曹雪芹が精魂こめて推敲を重ねて執筆しつづけ、途中病死したため完成に至らなかった。全百二十回のうち第八十回まではおおむね曹雪芹の手になるものであるが、その後の四十回は曹雪芹の構想を元に高鶚こうがくによって執筆された。この後の四十回は全八十回の展開と矛盾や齟齬そごをきたしている箇所もあり「補作」と考えた方が妥当である。本書では前八十回を中心にして考える。

『紅楼夢』の冒頭で、物語世界の前提となる神話的枠組みが語られる。『紅楼夢』は別名の『石頭記せきとうき』があらわすように一つの石をめぐる因縁譚である。この冒頭は難解で敷居が高く、中国において非常に人気が高い『紅楼夢』が日本であまり人気がない一つの原因となっている。

『紅楼夢』は巧緻に練り上げられた物語であり、これをすっ飛ばして単純に要約したりすると身も蓋も無くなってしまうような物語である。

『紅楼夢』の最大の特徴は、文章表現の密度がこれまで読んできた四作品とは段違いに高いことです。「筋」だけを追って読みとばすことのできない、周到に積みあげ練りあげられた緻密な語り口は、読者を物語世界に引きこむ磁力にあふれており、中国白話長篇小説の最高峰と称されるのにふさわしいものです。

『紅楼夢』は、白話長篇小説の流れを受け継ぎ特に『金瓶梅』を下敷きにして生まれたものである。最初は『風月宝艦ふうげつほうかん』というタイトルで『金瓶梅』風のエロティックな要素を残しつつ書かれ始めた。しかし作者の曹雪芹が推敲に推敲を重ねて書きついでゆくうちに、露骨な要素は浄化され、やがて『金瓶梅』の俗っぽさを鮮やかに反転させた物語世界が編みだされた。

しかし、曹雪芹は単に「俗」なる物を浄化すのではなく、浄化された少年少女の世界の外側に存在する強烈な「俗」な世界を書き、俗なる者たちの醜態をあぶりだすことにより、さらに少年少女の清冽を際立たせている。

『金瓶梅』から『紅楼夢』へ、もっとも変化したのは中心人物のあり方である。『金瓶梅』の中心人物の西慶門は『三国志演義』『水滸伝』に登場する英雄豪傑達の系譜を一転した欲望まみれ俗悪な存在である。一方『紅楼夢』の中心人物の賈宝玉はこのような西慶門のイメージから現世的なすべての欲望を洗い落した存在としてあらわれる。これは西慶門のイメージを完全に裏返ししたものにほかならない。

賈宝玉は、頭脳明晰な大家の御曹司にふさわしい少年だが、徹底的な少女崇拝者だった。『紅楼夢』は物語世界を通じて終始一貫して少年少女が前面に登場する。

中国の伝統的価値観では、「若い」ことや、「女性」であることは基本的に称揚されません。「男性」、しかも「経験を積んだ年配者」が尊敬されるのが常であり、『紅楼夢』がこうした常識を逆転し、まさに驚天動地の「少女を崇拝する少年」を主人公にしたことは、なんとも大胆な戦略だったといえます。

『紅楼夢』の物語世界は、貴公子賈宝玉の住む賈家の大邸宅を舞台に展開される。この賈一族の頂点に立つのは、当主賈赦の母である賈母かぼである。賈宝玉は賈母の最愛の孫であった。

成熟した大実力者の賈母の強力なバックアップによって、無力な少年少女たちは無粋な大人たちに干渉されることなく、自由自在にふるまうことが保障されるのです。

この賈母の娘の一人娘が林黛玉であり、彼女は母が亡くなった後、一人で賈母の元にやってくる。賈宝玉と林黛玉は、冒頭の神話的な世界からの因縁を持つ。

前世からの深い縁の糸で結ばれた彼らは、複雑な人間関係のもつれあった、巨大な賈家の内部で、ときとして激しく衝突しながら、しだいに相手への思いを深めてゆくのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました