『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第八章 近代仏教の形成 近代の仏教2(大谷栄一) (その3)
今日のところは、「第八章 近代仏教の形成」の“その3”である。ここまで“その1”では、幕末・明治期に近代化した仏教の「近代化の指標」について、“その2”では、明治二〇年代に起きた仏教改革について紹介された。
今日のところ“その3”は、日清・日露戦間期に広がった近代仏教についてである。ここでは特に「新仏教運動」「清沢満之の精神主義」「田中智学の日蓮主義」について詳しく書かれている。それでは読み始めよう。
3.日清・日露戦間期における近代仏教の形成
この日清・日露戦争間期には、滝沢満之の精神主義、境野黄洋や高嶋米峰ら新仏教運動、田中智学の日蓮主義など近代日本仏教思想の原形が出そろっている。
境野黄洋、高嶋米峰の新仏教運動
明治三〇年代に仏教青年サークル(仏教清徒同志会、のちに新仏教徒同志会)が結成され、新仏教運動と呼ばれる仏教改革運動が展開する。これは中西が明治二〇年代に提唱した「新仏教」が実体化されたものだった。
ここで、著者は、機関紙『新仏教』の冒頭を飾る「我徒の宣言」に注目している。同志会のメンバーは、伝統仏教を「習慣的旧仏教」「形式的旧仏教」「迷信的旧仏教」「厭世的旧仏教」「空想的旧仏教」として批判し、
「我徒は旧仏教に反対し、旧仏教の改革者と称すと雖も而かも旧仏教の破壊を専らとするもにあらずして、寧ろ新信仰の建設者、鼓吹者なるのみ」(抜粋)
と宣言している。
そして彼らの「要綱」には、内面的な「信仰」の重視、「社会改革」を目指すこと、「自由討議」などによる宗教迷信性の排除、伝統仏教の制度や儀礼の否定、政治権力からの自立、といったポリシーが明示されている。
個人の内面的な信仰や教義・信条の重視というビリーフ中心主義、プラティクス軽視という「宗教」観にもとづく「仏教」観によって、伝統仏教の改革を主張したのが、新仏教徒だった。(抜粋)
彼らは政治上の保護干渉を斥けたが、廃娼運動、禁酒禁煙運動、動物虐待防止運動、実費診療所などの社会事業などに積極的に取り組んでいる。これらの活動を支えた社会基盤は、仏教青年サークルとともにメディア・リテラシーと学知を持った都市中間層や全国の知識人読者だったと推測される。
清沢満之の精神主義
社会的志向性が強い新仏教運動に対して、個人的な内面的信仰の確立を図ったのが清沢満之の精神主義である。真宗大谷派の学僧であった清沢は、東京大学で哲学を同大学院で宗教哲学を学び、日本最初の宗教哲学書と評される『宗教哲学骸骨』を刊行した。
清沢は、暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎らと私塾・浩々洞を開設し、その機関紙『精神界』の創刊号に「精神主義」と題する論考を掲載した。
そこで清沢は、個人の内面に、絶対無限者(阿弥陀如来)への他力信仰を位置づけた精神主義の立場を明示した。
清沢は、徹底して個人の内面に信仰の立脚地を定め、世俗社会とは明確に区別される宗教独自の世界を切り開いた。それは近代的な「宗教」観を極限まで徹底した「仏教」観だった。(抜粋)
田中智学の日蓮主義
明治三〇年代の知識人や青年たちに与えた近代仏教思想として、国家主義的な田中智学の日蓮主義があった。
著名な評論家の高山樗牛、陸軍軍人の石原莞爾、文学者の宮沢賢治などが影響を受け、石原と宮沢は智学が創設した在家仏教教団の国柱会の会員だった。
日蓮宗の僧だった智学は、還俗したのち、在家仏教教団の国柱会を設立し、伝統教団(日蓮種)の改革運動を行った。智学は、日蓮宗門改革のマニフェスト(宣言)ともいる『宗門之維新』を刊行している。
智学にとって、「宗門之維新」とは日蓮教団に限定された問題ではなく、日本国家さらには世界人類の問題である。世界人類は『法華経』によって統一されなければならず、日本国民はその「天兵」であり、世界人類を霊的に統一すべき「天職」を有するのが日本だった。また、知学は島地黙雷の政教分離・政教相依論を超えて、日蓮仏教を国教化するための政教一致を説いている。(抜粋)
このような、壮大な主張は、先の新仏教徒たちに揶揄される対象であったが、日本が日清・日露戦争をへて帝国主義的な海外拡張を図る過程で、多くの青年たちの心に響くことになる。
宮澤賢治は『法華経』を信仰するとともに、国柱会に入会している。北川前肇の 『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』によると、日蓮主義では、自己の職業や能力を持って社会に貢献することが、信仰の証であるとされていた。そして賢治が家出して上野の国柱会に出入りしているころ、国柱会の理事であった高知尾智耀に、文学が得意ならば、「作品には純粋に法華経信仰がにじみ出るようでなければならない」と諭され、創作活動を始めたと書いてある。そして北川は、賢治の童話の根底には『法華経』の影響があると、言っている。(つくジー)
「煩悶青年」と教養化する仏教
そのような状況で「煩悶青年」という言葉がメディアで流行した。発端は一高の学生・藤村操の投身自殺である。この人生上の煩悶の末に死を選んだエリート学生の行動は社会に反響を呼び、後追い自殺をする人が後を絶たず社会問題化する。
この煩悶青年たちの受け皿となったのが、当時の新宗教の潮流であった。キリスト教界では、内村鑑三と蛯名弾正の下に当時の知識人や青年が集まった。そして、仏教界では、清沢らの浩々洞、近角常観の求道学舎に多くの煩悶青年が集まった。また、智学に影響を受けた高山樗牛の著述も当時の青年たちに多大な影響を与えた。
このころ注目された清沢、近角、樗牛が一端を担った「修養主義」は、後にエリート文化の中核となる「教養主義」と大衆文化の中核となる「修養主義」に分化していく。
とくに読書をはじめとする知的な営みによって、人格の向上や完成を目指す教養主義は大正時代に花開くが、近代仏教はそうした個々人の人格の完成をめざす近代日本の教養主義の一角に根を下ろすことになる。と碧海寿広[おおみとしひろ]は指摘する。つまり、「仏教の近代化」が日清・日露戦間期に登場した新しい近代仏教思想がたどり着いた、ひとつの気着点だった。(抜粋)
関連図書:北川前肇 (著) 『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』、NHK出版 (NHKこころの時代)、2023年
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