[再掲載]「錦の馬超、大活躍」 (三国史演義)
井波 律子『中国の五大小説』(上)より

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(初出:2008-07-04)

「中国の五大小説」(上) 井波律子 著

『三国志演義』の巻— 興亡の歴史と物語の誕生 十 錦の馬超、大活躍 — 五虎大将の勢揃い

曹操軍を撃退した後、荊州の支配権をめぐって、孫権と劉備の関係は急速に険悪になっていった。どうしても自立の拠点を確保したい劉備は諸葛亮の計略により荊州の支配者だった劉表の長男劉を押し立てて、呉から暫時、荊州を借りうけるという名目で荊州を保持した。
この過程で魏延ぎえん黄忠こうちゅうの二人が劉備の参加に入る。この魏延は自意識過剰で自分の役割を認識して動くことのできないタイプの人間で最初諸葛亮は、彼の頭に反骨はんこつー突き出た骨ーがある事を理由に殺す事を主張した、結局劉備のとりなしで部将の一人となるが、結局、諸葛亮の死後、反旗をひるがえることになる。黄忠のほうは、最後まで裏切るような事は無かった。

劉備側の表看板の劉が死ぬと、孫権は魯粛ろしゅくを派遣して荊州の返還交渉にあたらせた、しかし魯粛は諸葛亮にていよくあしらわれて、蜀攻略後に返還するという誓約書をうかうかと受け取ってしまった。業を煮やした周瑜は、孫権の妹を劉備に嫁がせる話を持ちかけておびき寄せ劉備を人質に荊州を返還させる計略を実行するが、諸葛亮により無に帰されてしまう。劉備と政略結婚をすることになる孫夫人はとびっきり果敢な猛女であったが、内心劉備を気にいっていて、後に劉備が孫権の元から逃げる時も彼に同行した。
こののち周瑜が死ぬと魯粛が呉の軍事責任者となる。孫権と劉備の緊張状態は緩和されるが、なお激しい駆け引きをしながらの同盟状態が続く。

曹操は、ふたたび江南を攻略すべく、かねてから不穏な動きをしている西涼の馬騰ばとうを討つ。父の馬騰が討たれたのを知った馬超ばちょうは、父の盟友とともに挙兵し猛然と曹操に戦いを挑んだ。馬超は呂布と同様な美将であり、個人的な武勇においては無敵を誇るが知略に欠け、曹操側の姑息な計略に引っ掛かり目の前で一族を皆殺しにされ、漢中の張魯ちょうろのもとへ落ちて行った。

馬超を撃退した後、曹操軍はますます威勢が上がった。この時次に目標になると震え上がったのは漢中の張魯であるが、彼は曹操の攻撃に備えて態勢を強化するために隣接する蜀の攻撃を画策する。蜀の支配者劉璋はもともと軟弱な性格だったために、曹操のもとへ能弁な張松ちょうしょうを派遣して、加勢を得ようとした。しかし、労せず蜀が手に入るという、うまい話であったのであるが、醜く頭の回転の速い張松を嫌ってあっさりと断ってしまった。張松は帰りがけに荊州の劉備の様子を見に行くと、事情を知っている諸葛亮に丁重なもてなしを受け、この人こそ蜀の支配者にふさわしいと劉備に蜀の攻略を進め、詳細な地図を献上した。そして劉備はいよいよ蜀に攻撃を仕掛ける。蜀では文官、武官を問わずむざむざ劉備に降伏することをよしとせずに戦ったので、劉備は三年にわたる苦戦を強いられた。そして劉備は宿願を果たし蜀の支配者となることになる。またこの過程で馬超も劉備側に帰順した。

ここにおいて、後に劉備が曹操と漢中争奪戦を制して漢中王になった時に作った「五虎大将」すなわち関羽、張飛、馬超、黄注、趙雲のすべてがそろう事になる。

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