[再掲載]「知力を尽くした総力戦」(三国史演義)
井波 律子『中国の五大小説』(上)より

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(初出:2008-06-30)

「中国の五大小説」(上) 井波律子 著

『三国志演義』の巻 — 興亡の歴史と物語の誕生 八 知力を尽くした総力戦 — 赤壁の戦い

曹操は荊州から劉備を追い出し、劉表の後継者の劉を殺して荊州を手に入れて、いよいよ呉に向かって進撃を始めた。ここで呉の孫権は曹操の大軍と戦うべきか、降伏するかの正念場を迎える。
呉では、文官とりわけ張昭ちょうしょうの発言力が強く、なかなか孫権の思い通りに事を運ぶことができなかった。それを見越して曹操は孫権に手紙を出し降伏して自分につくか劉備について戦うかの選択を迫った。
張昭をはじめとする文官は降伏論を唱え、黄蓋こうがいら部将の多くは徹底抗戦を主張した。ここで、降伏論を主張する文官達に一人で立ち向かい次々と論破したのが、孫権のブレーンである魯粛ろしゅくの案内で呉に来ていた諸葛亮であった。二者択一の事態に窮した孫権は、相談するために周瑜しゅうゆを呼び寄せる。
ここで諸葛亮と魯粛は周瑜を訪ねて意見を聞くと意外にも周瑜は降伏すべきであると言い魯粛と言い争いになる。そして諸葛亮は

禍を避けるには「二人の者を小舟に乗せて、長江のほとりまで送り届ければよろしい。曹操がこの二人を手に入れたならば、百万の軍勢はみな鎧(よろい)を脱ぎ旗を巻いて退散するでしょう」と言葉をつなぎます。(抜粋)

この二人とは、江東きょう公の二人の美女、大喬と小喬であり、そして、大喬は孫策の妻、小喬はほかならぬ周瑜の妻である。もちろんこれは諸葛亮の謀略であるが、曹操が自分の妻を狙っていたと思った周瑜はかっとなってたちまち意をひるがえして全面対決を決意した。
もっともこれは演義の中のフィクションであり、実際に文官達を説得したのは諸葛亮でなく周瑜であった。史実の周瑜は優れた人であったが、演義での周瑜は、諸葛亮に対する道化役となっている。
このようにして、長江を挟んで赤壁に陣取る曹操軍百万と周瑜の率いるわずか二万の呉軍が対決する「赤壁の戦い」となる。

この戦いで活躍したのが呉の将軍黄蓋である。彼は周瑜に大胆な提案をする。それは彼が自分が降伏するという密書を曹操に送り、ゆだんさせて、瞬時に発火する材料を積んだ十艘の戦艦を率いて曹操の船団に接近して火攻めに掛けるというものであった。周瑜と黄蓋は密書を曹操に信用させるために、わざわざ公衆の面前で喧嘩をして、それを曹操側のスパイが曹操に伝えるのを待って密書を送った。その頃、曹操側では江南の風土慣れない水軍の兵士が次々と病人になっていた。そこで「連環れんかんの計」という計略を周瑜に提案したのが諸葛亮(伏龍)と並び称された「鳳雛」こと龐統であった。たとえ一艘の船に火を放っても、すぐに他の船がちりぢりになれば効果は薄い、効果を上げるためには船と船をつないでおく必要があった。

かくして、巧みに機会をとらえて、曹操と会見した龐統は、曹操の水軍に病気が蔓延しているのは、船が揺れるためだから、安定させるべく、各船の「舳先(へさき)と船尾を鉄の輪で数珠(じゅず)つなぎにし、上に幅の広い板を置いたなら、人間はむろんのこと、馬さえ駆けることができます」と進言します。(抜粋)

病人に困っていた曹操はこの意見に飛びついてしまう。そして火攻めの残る条件である東南の風を魔術師でもある諸葛亮が吹かせた。このようにして黄蓋による火攻めは大成功をおさめ、呉軍は大勝利を飾る。

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