『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1章 植民地時代 ― 一六〇七~一七六三年 (その4)
今日ところは、「第1章 植民地時代」の“その4”である。前回”その3“では、本国と植民地の関係を年代ごとに説明された。それを受けて、今日のところ”その4“では、今度は植民地側の様子についての説明がなされる。そして、最後にここまでのような政治の動きではなく、植民地の暮らしがどのようであったかを紹介している。読み始めよう。
総督と植民地議会の対立
植民地の人間にとっては、自分たちの利益を代弁する植民地議会が最も重要な存在であった。本国から赴任する総督は、これに歯止めをかける存在であったため基本的には議会と対立していた。
この対立がなかなか解消されなかった理由の一つとしては、本国と植民地とでどのような政治権力がそれぞれ配分されているかについての意見の食い違いがあったということがあげられる。(抜粋)
本国側は、もともと植民地は王の領地であるから特許状による権力は、本国側が変更可能だと捉えていた。そして、植民地の議会の立法を拒否したり、裁判する権力は総督にあると考えていた。
一方、植民地側は、王から与えられた特許状により、権力は完全に譲渡され、そのなかに立法権、執行権、裁判権も入っていると考えていた。
コモン・ローをめぐる意見の相違
もっと基本的な法律の問題、つまりコモン・ローの考え方、どの程度イングランドのコモン・ローが植民地に適用されるかも、本国と植民地では考え方に違いがあった。
コモン・ローは、もともとイングランド領域全体に共通する法律のことである。これは憲法のようなものがあるわけではなく、長年の時間の蓄積のなかで築きあげてきた法的慣習を基礎にするものである。このイギリス由来の法律であるが、各植民地もコモン・ローの考え方を共有していた。
しかし、ここで問題になるのは、各植民地でも、すでに法慣習があるのではないかということである。つまり、もはや本国とは違う独自のコモン・ローが存在するという考えかたが登場した。さらに、イングランド系住民以外にもコモン・ローが適応されることへの反発も起きた。
本国と植民地には共通点も多々存在すると同時に違いも当然存在し、そしてその違いこそが彼らの対立を根深いものとしていたとも言える。(抜粋)
参議会と混合政体
植民地での総督と議会が対立する状況への解決策として、参議会という第三の存在を設けた。
アメリカの人たちはイギリスの国政が国王、貴族院、庶民院というトライアングルから成ることに気がついた。これは「混合政体」というもので、ひとつの機関が強大な権力を持っているのではなく、三つの部分が混合して法律を作る権力を共有するという国の仕組みである。
アメリカの人たちはこの「混合政体」の考え方を肯定的に捉えていて、総督と議会の他にもう一つ参議会という貴族院のような機関を作ることによってバランスが取れると考えた。
しかし、参議会は植民地の人が考えるより強大な権力を持つようになり、本国での枢密院と貴族院そして裁判所の役割が参議会に統一されてしまった。これにより総督の権限は削れ、代議院から見ると参議会は総督の見方に捉えられ、かえって植民地の政治が混沌としてしまった。
人々の暮らしと暴力
ここから話は、政治から離れ植民地での暮らしに移る。
植民地での生活は、さまざまな暴力と支配が氾濫していた。そして、際立っていたのが「自治の精神」、つまり自分たちのことは自分たちで決めるということであった。これは、後にフランスの思想家トクヴィルを感嘆させ、民主政の起源と考える研究者もいる。
ピューリタンが移住したニューイングランドや年季奉公人が多かったヴァージニアでは、当初は先住民と交易し関係は良かったが、しだいに悪化していく。双方とも残酷な殺戮が行われた。その戦いは激化し一六七五年にはフィリップ王戦争という争いも起こる。しかしこれは、先住民対植民者だけの争いではなく、先住民同士の争いや植民者同士の争い(ベーコンの乱など)もあった。
一つ言えるのは、このような白人入力者内部の対立を緩和する解決策としてとられたのが黒人奴隷制であったということだ。(抜粋)
黒人奴隷という労働力に頼るようになったため、年季奉公人は減り、白人同士は黒人奴隷の集団逃亡と反乱に備えて共同戦線をはる。
そして先住民は、攻撃と貧困そして伝染病のため衰退していった。
家庭と労働
入植者は当初高い死亡率であった。また男性の年期奉公の入植が多かったヴァージニアでは、ジェンダーバランスもいびつだった。植民地での家庭は、家父長制が支配する場所だった。子供の数はとても多く一〇人以上いる家庭もざらであった。そして、女性は従属させられることが多かった。
植民地では、本国との交易において希少性の高いもの、具体的にはタバコと砂糖、インディゴなどの生産が盛んに行われた(暖かいカリブの島や南部)。また、気候的に本土と違いが少ないニューイングランドなどは、漁業や林業、さらには海運業で稼いだ。
さまざまな信仰
植民地で、特に重要な要素だったのが宗教である。彼らの信仰は、ニューイングランドではピューリタン、南部諸邦は国教会、メリーランドではカトリック教会、ペンシルバニアではクェーカーなどの様々な宗派があった。しかし、プロテスタントが多数をしめ、プロテスタントが聖書を読むことを推奨したため、識字率は高かった。
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