『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一五 ヨブは何を懺悔したのか
今日のところは「一五 ヨブは何を懺悔したのか」である。前節(”前半“、”後半“)で神が登場し、いよいよヨブ記の結論となる。ヨブは何を懺悔したのであろうか? ヨブは神の全能性を認め、自分が無知であることを知った。そして、この神の問いかけにより、ヨブと神は間接的ではなく直接的な関係となった。それでは読み始めよう。
ヨブの懺悔
そこでヨブは主に答えて言った、
「わたしは知ります、
あなたはすべてのことをなすことができ、
また如何なるおぼしめしでも
あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか。』
それ故、わたしはみずから悟らないことを言い、
みずから知らない、測り難いことを述べました。
『聞け、わたしは語ろう、
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずからを恨み、
ちり灰の中で悔います」。(四二ノ一 -- 六)(抜粋)
ここでまず、神は全能であること知ります、と述べている。ここで「おぼしめし」の原語は、知恵を表す用語で、沈思、計画、目的を意味する。「できないことはない」の「できない」は、断ち切られる、禁じられるという意であり、人には禁じられていても神には禁じられるものはないということである。
ヨブは「みずから悟らないこと、みずから知らない、測り難いことを述べた」と言っているが、「測り難いこと」は、奇跡を意味する。つまり、ヨブが神の奇跡について懐疑的に語ることは、人間の越権である。
そして、「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」の「恨む」は、拒む、軽んずる、侮る、捨てるという意味であり、ここでは「自分を捨てる」と解釈するのが適当である。
第一の問題:全能の神
このヨブの懺悔から何を学ぶかであるが、まず第一の問題として、彼が「あなたに出来ないことはない」とヨブが神の全知全能を認めたことがある。神の創造と支配は人間の知り得ること以上であり、不思議であり、神秘であり、奇跡である。
この「測り難いこと」は、奇跡を意味し、それは人間の知識の限界を超えているということである。その神に対して、ヨブは「見よ、わたしはまことに卑しい者です」と言っている。ここの卑しいは、軽い、小さい、卑しい、取るに足らない者という意味である。
つまり、神の業に対して、人間の小さく貧しい知識、知恵をもって推し量ろうとしたことを、知的傲慢と認めたということである。
要するに人間の学問や道徳の世界を越えたところに始めて、信仰また宗教の世界が開かれていくということになる。(抜粋)
第二の問題:無知の無知
第一の問題と関連することであるが、ヨブの懺悔の中の「知る」「悟」「思し召し」「計りごと」の原語はみな知恵を表わし、それと関連する語ということがある。
ヨブはここに自己の罪を懺悔しているわけであるが、その罪とは行為や生活に関するものではない。道徳的、倫理的罪をいうのではなく、知的罪、知的傲慢こそヨブがここで懺悔しているものである。(抜粋)
ここでは、「罪」という言葉は出ていないが、罪とは人間の無知である。限界のある人間が無知であることは当然であるが、それを知らない。
無知の無知、それこそ人間の悔改むべき根源的な罪である。(抜粋)
人間が無知であることを知らないことにより、知的傲慢が生まれる。そのため懺悔とは自己の無知を知ること、無知の知ということになる。
無知であることを認めれば、知的傲慢や虚勢は無くなる。ここで著者は「裸」という語を引き合いに出し、誰の前にも裸で立つことができることであると言っている。
それをイエスは幼児の心という。(マタイ福音書一八ノ三)。(抜粋)
ヨブ記での裸は、エゴイズムそのものの人間の姿であるが、いま一つの裸は、自己の姿を素直に認めることである。前者は消極的で後者は積極的な裸である。この積極的な裸では、自己の弱さ、醜さを多く虚飾はない。
およそ虚勢から遠いところに立つことができる裸なる人間の無知の告白、それがヨブの懺悔であった。(抜粋)
裸になるという宗教の意義
幼児はある意味で大人よりもエゴイズムをむき出しにしている。しかし、幼児は自己のエゴイズムをそのまま飾らずに認めている。そしてそのような幼児こそ天国へ入ることができる。旧約聖書の詩人は歌う
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、
いなに尊いことでしょう。
あなたの栄光は天の上にあり、
みどりごとちのみごの口によって、
ほめたたえられています。(詩篇八ノ一、二)(抜粋)
著者は、文化や教養はしばしば人間の衣装となるが、信仰や宗教はその衣装を脱ぎ捨て飾りを捨てることに意味を持つものであると言っている。
ヨブ記の言葉を用いれば「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔いる」ということになる。(抜粋)
著者は、現代文明について触れている。現代は、知識が多く積みあがっていくに従い、その前途が暗く感じられるという矛盾がある。
文化、文明の進展は却って人間を虚無的とし、絶望感に突き落としつつあるのは何故か。(抜粋)
そこに信仰や宗教とかが再び根本的に発言する舞台がある。
「主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである」というヨブ記の言葉は今日のような人類文化の危機においてもう一度真剣に顧みられてよいのではないか(二八ノ二八)。(抜粋)
そのためには、宗教は知識などの衣装であってはならず、むしろすべての衣装を脱ぎ去るものである必要があるだろう。
第三の問題:「見神」ということ
ヨブは「わたしはあなた(神)のことを耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなた拝見いたします」(四二ノ五)と言っているが、これは、今まで耳で聞いていた神を今は目で見るといういわゆる「見神」という体験を指している。
ここでは、ヨブと神の関係が「間接的関係」(耳で聞く)から「直接的関係」(目で見る)に変わっている。
エミリヤ書では、「彼らの神の言葉を互いに盗む予言者だ、神は彼らの敵となる」(エレミヤ書二三ノ三〇)と言っている。偽の予言者は他の予言者の言葉をそのままオウム返しに繰り返している。そのためそこには偽りが生じる。
同様にヨブから見れば、友人たちの伝統的な賞罰の教義をそのままヨブに投げつけるだけで、そこには自身の主体的判断も洞察もない。そのため彼らは「偽りをもってうわべを繕う者、皆無用の医師」(一三ノ四)となってしまう。
このように偽りは神と人との関係が直接的ではなく、間接的であることによって生ずる。(抜粋)
神の声を直接聞くこと
ここで著者は、神の声を”直接“聞くことの重要性を示す話として、旧約聖書の歴史書からの一説の概要を説明した後、
以上はこれは神の言葉だ、命令だというものを間接に聞き、それをそのまま鵜呑みにしてもそれは神の言、その命令にはならないと言ことを意味するわけである。直接に神の命令を聞くことによってはじめて神の言になる。(抜粋)
と言っている。
そして、それを我々自身にあてはめると、我々が聖書によって神の言を学ぶにあたり、聖書について学ぶのではなく、聖書そのものを学ぶ、ことが重要ということになる。すなわち本書の解説をもってヨブ記を了解することではなく、ヨブ記そのものを自身の目で読み、その意味を自身で探る事でなければならない。
そして、それを我々自身にあてはめると、我々が聖書によって神の言を学ぶにあたり、聖書について学ぶのではなく、聖書そのものを学ぶ、ことが重要ということになる。すなわち本書の解説をもってヨブ記を了解することではなく、ヨブ記そのものを自身の目で読み、その意味を自身で探る事でなければならない。
そして、さらに使徒行伝に出てくる話を引き
要するにベレヤのユダヤ人たちはパウロの説教を感心して聞いたが、そえを鵜呑みにしたのではなく、彼のいうところが本当か、どうかを日々聖書を読んで調べたのである。(抜粋)
として補強している。
さらに著者は、原典を読む必要があるということは、何も聖書だけではなくすべて古典にあてはまると強調している。
第四の問題:恵みの呼びかけ
最後に付け加えたいこととて、著者はヨブの懺悔が自発的な意思によるものではなく、神の呼びかけによるものであることを指摘している。ヨブは、神との直接の対話を望んでいたがそれは叶わず答えてくれなかった。しかし、最後にして神の方からヨブに呼びかけてきたのである。
これは恐らく彼が予期せざることであり、神の恵みの呼びかけというべきものであろう。(抜粋)
この恵みの呼びかけにより神とヨブは直接の対話が始まった。そして、そのことにより絶望のヨブに新しい世界が開けたのである。


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