ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム(その4)
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』より

Reading Journal 2nd

『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二章 ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム(その4)

今日のところは「第二章 ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリスト」“その4”である。今日も「政権を握ったポピュリズムは「非リベラルな民主主義」と同義なのか?」節である。著者は前回“その3”において、「非リベラルな民主主義」という呼称がどのように使われているかを考察した。今日のところ”その4“では、「非リベラル」と「民主主義」などの概念を詳しく見た後、なぜハンガリーやポーランドなどのポピュリストが政権を握った諸国を「非リベラルな民主主義」と呼ぶのがミスリーディング何かが説明される。それでは読み始めよう。

政権を握ったポピュリズムは「非リベラルな民主主義」と同義なのか?(後半)

非リベラリズムとキリスト教民主主義

さて、「非リベラルな民主主義」とは、必ずしも矛盾した言葉ではない。(抜粋)

著者は、このように言って、キリスト教民主主義を例にして、説明をしている。

一九~二〇世紀を通じて、キリスト教民主主義者は「非リベラル」を自称してきた。しかし彼らは「民主主義におけるマイノリティの重要性」をしっかり理解していた。また、裁判所のような非選出制度が非民主主義的とも考えていない。

したがって、[キリスト教民主主義者が「非リベラル」と自称する]理由は、単純に彼らが「リベラリズム」を、個人主義や物質主義マティリアリズム、そしてしばしば無神論と結びつけて考えていたからである(抜粋)

彼らの反リベラルは、基本的な政治的権利への尊重の欠如ではなく、資本主義の批判や伝統的な家父長的な家族理解を強調するものである。

このように民主主義の非リベラルな哲学的な基礎づけはある。このような非リベラルは、結婚や堕胎などの権利を制限する伝統的な社会を強調する。しかし、この諸権利の制限が民主主義の深刻な欠陥であると論じるのは、奇妙なことである。相対的に不寛容な社会と論じる必要はあるが、非リベラルな民主主義とは異なるものである。

非リベラリズムは政治的諸権利の攻撃との区別

私たちは、非リベラルな社会と、言論及び集会の自由やメディアの複数性やマイノリティの保護が攻撃に晒されている空間と区別しなければならない。これらの政治的諸権利は、単にリベラリズム(あるいは法の支配)のみに関わるものではない。それは民主主義自体を構成するものなのである。(抜粋)

政権が選挙に不正を行わなくても、野党が自らの主張を適切に訴えられないとすれば、その投票は非民主主義的なものである。民主主義にとって市民に政治について十分な情報が提供されていることは重要である。

一九八九年以降に成立した多くの振興民主主義国家が、基本的な政治的諸権利を保護し、政治および社会における多元主義を維持するために、憲法裁判所を設けたのは偶然ではない。そうした裁判所が(リベラルのみならず)民主主義自体の開花を究極的には助けるのだとして正当化されたのである。(抜粋)

「非リベラルな民主主義」ではなく「欠陥のある民主主義」

「非リベラルな民主主義」とポピュリストたちを批判しても無駄である。かえって彼らは民主主義をうまく自分のものにし続けるだけである。

ポピュリズムの指導者たちは、「非リベラルな民主主義」という表現を使い、国民国家が民主主義を担い、EUなどの存在がリベラルを担うという分業に仕立て上げる。そして、自分たちはEUの中のマイノリティであり、伝統を重んじ西側のリベラルなエリートには屈しないと主張する。

以上のことから全てからして、われわれは「非リベラルナ民主主義」という軽率な呪文をやめるべきなのだ。ポピュリストは民主主義自体を傷つける。(抜粋)

ポピュリストが選挙で勝利したとしても、それをもって彼らの企てに民主主義的な正当性はない。彼らは、最初の選挙で正統に勝利したとしても、彼らは、いわゆる真の人民の名の下に、民主主義の制度的な仕組みに勝手に手を加え始める。

ポピュリストは、民主的なプロセスを捻じ曲げ、政権与党が十分なマジョリティを手にした場合は、新しい憲法を成立させることができる。そしてその憲法は、真の人民のための国家を自らのものにする試みとして正当化される。

直面する政治的な現実を理解するために、民主主義を広く定義するとハンガリーやポーランドのような政府を民主主義と認めることになり、そしてあまりに権威主義を広く捉えると、極めて抑圧的な体制を、ハンガリーやポーランドと同じカテゴリーに入ることになってしまう。

このような理由で、ポピュリスト政権を「非リベラルな民主主義」や「権威主義」と呼ぶのではなく「欠陥のある民主主義」という名称のほうがより適切である。

EUとポピュリスト政権の関係

EUにとっても、ハンガリーやポーランドのような「非リベラルな民主主義」とされる国家と向き合うとき、自分が何をしているのかについて自覚的であることが重要だ。(抜粋)

著者は、このようにEUの問題について指摘している。

EUでは多くの刊行物で「法の支配」と「民主主義」が一方が他方抜きではありえないと主張している。しかし、公的な言説では、もっぱら「法の支配」のほうが協調されている。そのため、国民国家が民主主義を担い、ヨーロッパがリベラリズムを担うという感覚を強めている

欧州官僚は、自分たちの関心が法の支配の保護と同じくらい民主主義にもあることを強調すべきである。(抜粋)

そして、「リベラリズム」が、市場競争としてだけでなく、強力で恣意的な利害としても経験されていることを直視するべきである。

このリベラリズムが、勝者にとってのみ善いものに見えるならば、リベラルは自らのコミットメントを再考する必要がある。

また、ポピュリズムに対して民主主義を擁護する人は、西欧や北米の既存の民主主義がうまくいっていない事実もごまかしてはいけない。

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