エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
二〇 アラーの神と預言者ムハンメド
第19章でやっとヨーロッパが中世に入った。今日のところ第20章は、ヨーロッパから少し離れて、イスラム教の話になる。ここでは、どのようにしてイスラム教が生れたか、そしてイスラム教がどのような宗教である、そしてイスラム諸国によるヨーロッパの侵略である。
アラビアの砂漠では、数千年もオアシスとオアシス、都市と都市の部族が戦いあっていた。彼らは、まだ素朴な信仰を持っているに過ぎなかった。メッカのカアバには天から降ってきた一つの石が安置されていて彼らは、しばしば砂漠を越えてその地を巡礼していた。
六〇〇年ごろメッカにアブダラー(アブド・アッララ)の息子モハメド(ムハンマド)という男が住んでいた。彼の父はカアバの聖職者であったが、裕福ではなかった。そのためモハメッドは、働かなければならなかった。彼は金持ちの女性にラクダ使いとして雇われ、やがてその女主人と結婚した。
メッカの町では、モハメドは「公正な男」と呼ばれ尊敬される存在だった。彼はカアバの地を訪れるアラビア人のもならず、ユダヤ人、キリスト教徒とも好んで議論し、「唯一の目に見えない万能の神」に強い印象を持った。
ある旅の途中、彼はひとつの幻覚をもった。・・・・(中略)・・・・モハメドの前に、大天使ガブリエル(ジブリル)があらわれ、彼に向って大きい声で「読みなさい」とさけんだのだ。「わたしは字が読めないのです」と、モハメドは小さな声で答えた。「読みなさい」と天使はさけび、それを二度、三度とくりかえし、さらに彼の神の名でもって祈ることを命じた。この幻覚について強い衝撃をうけたモハメドは、故郷に帰りついてからも、そのことがこころから離れなかった。(抜粋)
それから三年後、また彼に幻覚が襲った。大天使ガブリエルは、「起きて皆に警告せよ、そして、おまえの主なる神をたたえよ」と言った。そしてモハメドはこれが神のお告であることを認識し、みずからの使命を預言者であると自覚した。
メッカの聖職者たちは彼を弾圧する。そんな時、モハメドはメッカと敵対するオアシスの部族の人と知り合いになった。彼らのオアシスにはユダヤ人が多く住んでいたため、彼らも唯一の神の話を理解できた。モハメドは彼らに教えと説いた。メッカの聖職者たちは、彼を裏切り者として殺すことに決めた。六二二年七月一六日にモハメドはメッカから抜け出し彼を支持してくれる砂漠の町へ向かった。モハメドの信奉者はこれを「逃亡(ヒジュラ)」と呼ぶ。そして、この日を彼らの暦の紀元とした。
モハメドは、後に「メディナ(予言者の町)」と呼ばれるこの都市で熱烈に迎えられた。
メディナでムハンマドは、神がユダヤ人のためにアブラハムやモーゼの前にあらわれたこと、キリストの口を借りて人間に生き方を教えたこと、自分を預言者としてえらんだことを話した。
彼は、アラビア語でアラーと呼ばれる神のみを恐れることを教えた。なぜなら人間の運命はあらかじめ定められており、すでに大きな本に書かれている、私たちの運命は神の手にゆだねねばならないからである。ゆだねることを「イスラム」といい、モハメドは彼の宗教をイスラムと名づけた。
彼を信じるも者はこの教えのために戦い、勝たねばならない。彼を信じない者をころしても、罪にはならない。この信仰のため、アラーと預言者のために戦いたおれた勇敢な戦士は、ただちに天国へ昇る。しかしアラーを信じない者、卑怯な者は地獄へ落ちる。この天国をモハメドは、彼の信奉者のために、説教、幻視、啓示(これらをまとめて「コーラン」とよぶ)のなかで、とくべつにうつくしいことばで描いている。(抜粋)
メディナの人びとは、預言者への仕返しのためメッカに向かった。一度は勝ったが次は破れた。そして今度はメッカの住民がメディナを取り囲んだが、10日で引き返さざるを得なかった。モハメドは、1500人の武装した仲間と共にメッカに巡礼した。この時、モハメド側に多くの人が付き彼はメッカを手中に収めた。
モハメドは六三二年に亡くなった。彼の最後に四万の信者を前に説教をした。
アラーのほかに神のないこと、モハメドが預言者であること、それを信じない者を服従させることを。さらに彼は人びとに、日に五度メッカに向かって祈ること、酒を飲まないこと、勇敢であることをちかわせた。そしてまもなく息をひきとった。(抜粋)
アラブの人たちは預言者のことばを忠実に守り、「カリフ」と呼ばれたモハメドの後継者アブ・バケル(アブー・バクル)やオマル(ウマル)にひきいられ、近隣諸国の征服に向かう。彼らは、パレスティナとペルシアを占領し、エジプトを占領する。このとき、アレクサンドリアの図書館を焼きはらう。
アラビア帝国は、ものすごい勢いで拡大する。ペルシアからインドへ、エジプトから北アフリカ全土へ進出した。六七〇年には東ローマの首都コンスタンティノーブルを占領しようとしたが、その都市の住民は七年の防戦の敵を追い払った。その後アラビア軍はアフリカから海を渡りスペインを支配下に置く。
そして、メロヴィング朝の王たちの治めるフランク族の国フランスに向かった。
彼らの前に立ちはだかるのは、キリスト教化したゲルマン民族の農民兵士であった。彼らを指揮したのは、敵を勇敢に叩きつぶすことからハンマー(マルテル)とあだなされたカルル(シャルル)であった。そして事実彼は、七三二年、すなわち預言者の死からちょうど一〇〇年後、南フランスのトゥールとポワティエで、アラビア軍をやぶった。このときカルル・マルテルが負けていたら、フランスとドイツはアラビア人に支配され、その地の修道院も破壊されたにちがいない。そしてわたしたちはおそらくみんな、今日のペルシア人や多くのインド人、メソポタミアやパルスティナのアラビア人、エジプト人やその他の北アフリカの住民のように、イスラム教徒になっていたにちがいない。(抜粋)
しかし、アラビアの人は宗教的な熱狂がさめると、占領した国々から学ぶことを始めた。ペルシア人からは絢爛な絨毯や布地、豪華な建物や素晴らしい庭園などを学んだ。イスラム教徒は偶像崇拝を認めないため彼らの宮殿や寺院(モスク)は「アラベスク」と呼ばれる美しい縞模様で飾った。彼らはいつしか本を焼くのをやめ、アリストテレスなどの本を集め翻訳し、とりわけ自然界のことに興味を持った。
著者は特に『千夜一夜物語』とアラビア数字について感謝したいとしている。
関連図書:
『ガラン版千一夜物語』(全六冊)岩波書店、2019-2020年
『完訳 千一夜物語』(全13冊)岩波書店(岩波文庫)、1988年
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