『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第四章 「つながり」を感じる (前半)
ここから、第四章「「つながり」を感じる」に入る。前半では、「労苦」という言葉の意味からはじまる。コヘレトは、「労苦」を必ずしも負のものと考えておらず、むしろその中に幸福を見つけている。
「コヘレトの言葉」では、「労苦」という言葉が多く使われ、働いても搾取される労働者の疲弊が表現されている。この「労働する」はヘブライ語で「アーマール」といい、ここでは、「労苦」と訳してあるが、決して「苦しい」という意味が強調されている言葉ではない。「アーマール」は、労苦することによって生み出された「結果」「果実」も含んだ言葉である。つまり、この「労苦」には「働くことの苦しみ」だけでなく「働くことの喜び」という意味も含んでいる。
(若松)私たちは、労働と苦しみを混同してしまうことがあります。その意味では、生きることは、苦しみの連続だともいえる。でも、私たちは苦しみを経験することで初めて、幸福や喜びを見いだしていくことができる。そのような感情のすべてを「アーマール」という言葉がふくんでいるのですね。(若松)
コヘレトにとって、生きることは「アーマール」であり、「アーマール」には豊かな恵みもある。つまり労苦は、生きていることは、神の賜物であるとも読める。
次に「私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業をみた。それは仲間に対する妬みによるものである」という一文の「妬み」について話題が移る。この一文は労働において他人に妬みを起こすということである。しかしコヘレトは、秀でることにそれほど価値を置いていない。労苦というものは、本来自分で行うことなので、他人と比較するものでは無いとコヘレトは考えている。
(小友)ところが、そこに「妬み」という感情が入ってしまうと、人よりも秀でることを求めてしまう。すると、本来は生きるためのものであった労働が、人を蹴落としてでも利益を求めようとするものに変わってしまう。しかし、コヘレトは生きるためのものであった労働こそが大事なのであって、人と比較して、人を押しのけて利益を得ようとする労働は、空しいものであると考えているんですね。(抜粋)
次に「銀を愛する者は銀に満足することがなく / 財産を愛する者は利益に満足しない」という一節の話題に移る。若松は、これはまさに現代の先進国で生きる人の病であるといっている。そして、コヘレトは「あらゆる労苦の内に幸せを見いだす」として、「労苦」と「幸せ」への道のりを示していると語っている。
ここで小友は、経済学者のエルンスト・シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』の一節を引く。シューマッハは、この書の中で、経済面について「われわれの間違った生き方というのは、第一に意識的に貪欲と嫉妬心をあおり、法外な欲望を解き放ってしまったことである」とし、多くを持つことが秀でているといることなだという世界観に対してNOと言っているとしている。
(小友)シューマッハはコヘレトと同じことをいっています。人は何のために働くのか、誰のために働くのかを考えなくなってしまっている、と警告しているのです。(抜粋)
これに対して若松も「シューマッハは私たちに、ただひたすらに大きさを誇るものは「醜い」ということも含意しているのだと思います。」と応えている。そして、このシューマッハの言葉は、ゲーテの「ゆっくり急げ」ということの重みを教えているとしている。そしてコヘレトも「速く遠くへ」「より大きく」とは言わずに「自分に留まり、ゆっくりと歩けと」と言っている。
次に話題は、「たらふく食べても、少ししか食べなくても / 働く者の眠りは快い。 / 富めるものは食べ飽きていようとも / 安らかに眠れない。」の一節に移る。これは食べて飲んで享楽的に生きようというメッセージではなく、食べることこそが神からの賜物なんだということを言っている。
(小友)一生懸命働いて、心地よく食べる日常を続けること。これこそが「神に賜物である。」といっているんです。(抜粋)
関連図書:ルンスト・シューマッハ(著) 『スモール・イズ・ビューティフル』、講談社(講談社学芸文庫)
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