「コヘレトの言葉」とは何か(前半)
小友 聡『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』より

Reading Journal 2nd

『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第1回 「コヘレトの言葉」とは何か(前半)

まず第1回では、「コヘレトの言葉」とはどのような文章であるのかについて解説される。


皆さんは、この言葉をご存知でしょうか。

空の空
空の空、一切は空である。

これを「仏教の経典の言葉です」と言えば、おそらく多くの人は納得するでしょう。「般若心経」にこんな一説があったかなあ、と思う人もいるかもしれません。
ところが、そうではありません。これは、旧約聖書の一説です。(抜粋)

著者は、このように「コヘレトの言葉」について語り始めた。
コヘレトの言葉、旧約聖書のたった12章からなる小さな文書である。この文章を書いたコヘレトは、長く皮肉なことばかりを語るニヒリスト(虚無主義者)、世を儚むペシミスト(厭世主義者)だと思われ、コヘレトの言葉も異端の書と捉えられてきた

しかし、著者は近年この本を解釈し直し、その魅力に気づく人が増えているといっている。

コヘレトは、ヘブライ語で「集める人」という意味である。彼はソロモン王に名を借りて知恵を語っている。著者はその人物像を、人間の生と死を見つめ、人生の意味を深く考えたバランス感覚のある知者だとしている。

また、コヘレトの言葉の成立時期は、一般的には紀元前三世前後と考えられているが、著者は紀元前150年ぐらいと考えている。

ここで著者は、旧約聖書の成立と新約聖書との関係を語ったのち、キリスト教の「救済史的歴史観」について次のように解説している。

救済史的歴史観とは、旧約聖書で予告されたメシア(救い主)が、ナザレのイエスの到来で実現し(終末の始まり)、いつか来る終末にキリストが再臨して神の国が完成し、人々が救われる(終末の完成)という歴史観のことです。この歴史観は、「コヘレトの言葉」を読むうえでも重要な背景なので、頭の隅に入れておいてください。(抜粋)

旧約聖書は、「モーセ五書」、「歴史書」、「文学書」、「予言書」の四種に分類されるが、コヘレトの言葉は、文学書のひとつである。その文学書の中でイスラエルの知恵を伝承するために書き記された諸文書を「知恵文学」といい、「ヨブ記」、「箴言」「コヘレトの言葉」、「雅歌」がそれにあたる。
旧約聖書、知恵文学の「箴言」は、「正しき者がこの地上で報いを受けているなら、悪しき者や罪人尚のことである」(「箴言」11章31節)のような「応報思想」の知恵が説かれている。旧約聖書では、厳格な応報思想が主旋律である(「申命記」など)。

一方、「箴言」と対照的な思想として知恵文学の「ヨブ記」がある。「ヨブ記」は最高の義人ヨブが受けた不条理を語っている。

「ヨブ記」は、旧約聖書の応報思想を退け、伝統的な知恵を根底から覆していると言えます。伝統的な知恵が危機にさらされ、新たな知恵が模索されていると言ってもよいでしょう。
箴言の知恵は楽観的で、ヨブ記の知恵は悲観的です。そのヨブ記の延長線上に、「コヘレトの言葉」という、もう一つの知恵文学があるのです。(抜粋)

ここで、著者は

旧約聖書に二つの異なる知恵が見られるのは、実はイスラエルの歴史と深く関わっています。(抜粋)

として、ここより「イスラエルの歴史」についてについて説明する。(後半へつづく)

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