シビリアン諸葛亮 - 諸葛孔明(その2)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 諸葛孔明(その2)

今日のところは、「諸葛孔明」の“その2”である。“その1”では、劉備と諸葛亮の出会いから、「赤壁の戦い」に敗れた曹操が引き上げるのに乗じて、劉備が荊州に本拠地を持つまでが描かれていた。もちろんそこには、天才軍師の諸葛亮の活躍があった。

今日のところ“その2”では、いよいよ蜀への侵略が始まる。それでは、読み始めよう。

シビリアン諸葛亮

蜀の攻略

荊州に本拠地を持った劉備の下へ、蜀の劉璋りゅうしょうから漢中かんちゅうに依拠する張魯ちょうろ討伐の依頼がくる。この要請を受けた劉備は、龐統ほうとうを軍師に据え、蜀に入った。この渡りに舟の提案をもたらした法正ほうせいは、愚かな劉璋を見限り、劉備主従と気脈を通じていた

蜀に入ると、しばらく引き延ばし作戦を取った劉備は、機が熟したと見るや、蜀攻略戦を開始した。ここで龐統の戦史などの犠牲を払いながらも劉璋の本拠地成都せいとを包囲した。

ここで荊州に関羽を残し、諸葛亮・張飛・趙雲らが合流、西涼せいりょうの猛将馬超ばちょうも説得に応じて劉備に降伏していて、成都包囲網は鉄壁となった。劉璋は、戦わずして降伏し、ここに「天下三分の計」の第二段階、蜀攻略に成功した。

諸葛亮の行政手腕

ここから諸葛亮の行政能力が威力を発揮した。諸葛亮は、

  1. 劉璋の放漫政策に慣れ無責任体制の土民の意識を改めるために、合理的な法治政策をとること
  2. 公正な能力主義で有能な人材を重要ポストにつけること

であった。①の制作により、当初は土民たちのなかに恨みを抱くものが続出したが、断固とした法治政策をとりつづけ、結果として蜀の国内情勢はみるみる引き締まった。

このような法治政策を取ったことにより、諸葛亮を法家ほうかと見なす向きも多いが、しかし、彼は決して教条的な法律万能主義者ではなかった。著者は、蜀の攻略の最大の功労者である法正が、その後私怨を晴らすなど目に余る行為が多かったが、諸葛亮は、法正の絶大な功績に鑑みてその逸脱行為を大目にみる度量も併せ持っていたと指摘している。

人材登用についても、単にその能力だけを見た功利主義ではなく、これはと見込んだ人物を適材適所に配置してその力を引き出している。諸葛亮は、蜀の人士の能力だけでなく、その心もしっかりとつかんでいた。

ここで著者は、このような諸葛亮の人心把握の努力の結果として、劉璋政権の地方官から劉備政権の中堅幹部となった陽洪ようこうや劉備が呉に出兵し敗北した時にやむなく呉に降伏した黄権こうけんのケースをあげている。

漢中攻略と関羽、劉備の死

諸葛亮が内政の基礎固めをした蜀は、劉備が曹操に攻め勝ち漢中を手に入れた。劉備は、高祖劉邦りゅうほうが天下統一前に名乗った縁起のいい称号である漢中王となる。

しかし、蜀の上昇ムードに水を差したのが荊州情勢であった。荊州では、親劉備派の魯粛が死亡すると孫権は劉備との同盟を破棄し、曹操と手を結んだ。そして、劉備の漢中進撃と呼応して、北上した関羽が敗北し、魏と呉の軍勢に挟み撃ちにされ死亡してしまう。

これによって、呉と同盟したうえで荊州と蜀を取るという、諸葛亮の最初の基本構想はついえたのである。(抜粋)

そして、曹操の死後、曹丕そうひが帝位につき魏王朝を立てると、諸葛亮は間髪入れず劉備に帝位につかせ蜀王朝を立てた。劉備には漢王朝の末裔という大義名分があった。

そして、帝位についた劉備は、関羽の報復を期すために、重臣たちの反対を押し切って呉に出撃し、あえなく大敗し再起不能となり、その生涯を閉じた

その死にあたり、劉備は諸葛亮にこう遺言した。「君の才能は曹丕の十倍ある。きっと国家を安定させ、最後に大事業を成し遂げることができよう。もし私の後継ぎが輔佐するのに足りる人物ならば、彼を輔佐してやってほしい。もし才能がないならば、君が国を奪い取るがよい」。瀕死の劉備の捨て身の言葉を受け、諸葛亮は泣きながらに、「私は心から股肱ここうの臣として力を尽くして忠誠をささげ、最後に命を捨てる所存です」と誓った。この誓に背かず、諸葛亮は丞相じょうしょうとして全責任を負い、暗愚な劉備の長男劉禅りゅうぜんを守り抜いて、死ぬまで力を尽くし続けた。この辣腕らつわんの名丞相は、根本的には大いなるロマンティストだったといえよう。(抜粋)

蜀の繁栄

劉備の死後も諸葛亮の活躍により、蜀は繁栄した。政治・社会システムの合理化に続き、農業・経済面にも手腕を振るった。

農業では水害や旱魃かんばつにそなえ灌漑工事を行い、また、漢中一体に屯田とんでんを設置し軍糧の確保に備えた。そのため、古来天府てんぷの国」と称された蜀は、ますます栄えた。商工業の発展も著しく、蜀錦しょくきんと呼ばれる高品質の錦織にしきおりの生産が伸び続けた。

中原への進出への準備

このように諸葛亮は蜀の国力を充実させ、宿願である中原ちゅうげんへの進出の準備を行う。諸葛亮は、劉備の死後にこじれていた呉との関係を修復しまた同盟を結んだ。さらに、南中なんちゅうの平定に乗り出し勝利を収める。

入蜀から南中征伐まで、この時期の諸葛亮はその全人格的な才能のうち、優秀な行政家つまりシビリアンとしての才能をフルに発揮し、蜀の国力を飛躍的に高めた。「治世の天才」の面目躍如というほかない。(抜粋)

初出掲載誌:(「歴史群像」九二年六月、学研+「ザ・ビッグマン」九二年八月、世界文化社)

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