『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二部 — 諸葛孔明(その1)
今日から「諸葛孔明」にはいる。前節「周瑜伝」は、周瑜という呉の名参謀を軸として、三国志時代の呉の歴史を追った。『三国志演義』では、主役が蜀の劉備、敵役が魏の曹操なので、呉の孫権は影が薄い。さらに周瑜になると、そういえば赤壁の戦いのときに出てきたっけかな?といったイメージだったが、いやいやただものではなかった。そして、ここからは「諸葛孔明」、まさに「三国志演義」の中心人物である。諸葛亮にスポットを当てるとどんな話になるのか、それでは読み始めよう。
この章は、節ごとに4回に分けてまとめることにする。
若き軍師諸葛亮
諸葛亮孔明と「三顧の礼」
劉備は、関羽、張飛、趙雲などの超一流の武将を率いていたが、その半生は試行錯誤と挫折の連続だった。それはひとえに彼の英雄性を生かしてくれるブレーンを持っていなかったことによる。
劉備は「官渡の戦い」で曹操が袁紹を撃破すると、曹操に追われて荊州の劉表に身を寄せ、数年間、鳴かず飛ばずのままだった。
しかしここで待望のブレーンとなる諸葛亮あざ孔明にであう。劉邦四十七歳、諸葛亮二十七歳の時である。
諸葛亮は、劉備の「三顧の礼」に感動し、劉備に「天下三分の計」を展開した。つまり、北中国を支配する曹操は、互角に戦える相手ではなく、三代にわたって呉を支配する孫権勢力も同盟するする相手であって敵対する相手でない。
北中国と江東がこうしてガッチリ押さえられている以上、劉備が自立しうる道は、孫権と手を結び、無能な劉表が支配する荊州と、暗愚で聞こえる劉璋の支配する益州(蜀すなわち四川省)を責めとる以外にはない。(抜粋)
そして、このプランに感動した劉備は諸葛亮に出馬を懇願し、諸葛亮も軍師となる決意を固めた。これは、
諸葛亮自身にとっては、大きな賭けだったに違いない。(抜粋)
しかし、後年、諸葛亮自身が「出師の表」で述べたように、二十以上も年上で百戦錬磨の劉備の真情あふれるひたむきさに打たれ、損得勘定抜きでそのパトスに火がついたのであった。
まさに、「士は己を知る者のために死す」、千載一遇の出会いだった。(抜粋)
諸葛亮孔明の出自
諸葛亮は、琅邪郡陽都の名門の出身、幼くして父を失い叔父の諸葛玄にしたがい、江南に渡った。つとめて世事にかかわらない姿勢から「臥龍」と呼ばれる荊州知識人のホープだった。
また、彼は荊州土着の豪族とつながりを持つと共に、南北交通の要衝である地の利を生かし、天下の情勢を把握していた。
「長坂の戦い」の大敗北
しかし、この出会いの後に劉備たちに大きな試練がやってくる。北中国を制覇した曹操が、公称百万の大軍を率いて、荊州を目指して攻めてきた。このとき急死した劉表の跡継ぎの劉璋はたちまち降伏してしまい、劉備たちは急遽軍勢をまとめて江陵を目指いて南下した。しかし、長坂まで来たとき曹操の精鋭部隊に追いつかれてしまう。一行は、張飛と趙雲の奮闘もあり、やっとの思いで呉に接する夏口まで落ち延びた。これが「長坂の戦い」である。
諸葛亮と魯粛との出会い
この「長坂の戦い」の大敗北が、意外にも「天下三分の計」を実現する端緒となったのだから、わからないものである。(抜粋)
ここで、諸葛亮は、荊州の視察に来ていた魯粛と邂逅をする。魯粛は、呉に仕えた諸葛亮の兄諸葛瑾の友人であり、「天下三分の計」と発想が同じである天下分友論者であった。二人は意気投合し、劉備に孫権を説得して同盟を結び曹操と対決すべきであると進言した。劉備はさっそく諸葛亮を孫権の元へ派遣する。
諸葛亮は、孫権を前に鮮やかな弁舌を見せ、当時二十七歳だった孫権の自尊心を刺激し、劉備との同盟することを認めさせた。もっとも孫権政権保守派の抵抗も堅く、軍事責任者の周瑜の主戦論によって保守派を論破したのも大きかった。(この辺りは、前章周瑜伝のココあたりを参照のこと)
赤壁の戦いと曹操の敗北
そして、建安十三年五月、曹操率いる公称八十万の軍勢と周瑜及び程普率いる二万の呉軍が赤壁において長江を挟んで対峙した。この圧倒的数的不利を呉軍は、水戦に不慣れな曹操軍の虚を突いた奇襲作戦で、壊滅的打撃を与えた。曹操はこの「赤壁の戦い」に敗れたことにより、天下統一の夢が頓挫してしまう。
曹操はすでに五十四歳。二十代の諸葛亮や三十代の周瑜をはじめとした江南の鋭気あふれる若い力が、この経験豊富な「乱世の姦雄」を一敗地にまみれさせたといえよう。(抜粋)
荊州の支配権をめぐる争い
曹操が撤退することにより、荊州の支配権をめぐって孫権と劉備の対立が激化する。
劉備は同盟を結んでいたとはいえ「赤壁の戦い」では実戦に関与していなかった。周瑜が江東を死守するために曹仁と戦っている間に劉備は劉表の長男劉璋を荊州の長官に仕立て上げ、温存した軍勢を使って荊州南部の四郡を制圧する。
そして、最大のライバルである周瑜は、曹仁を敗走させた後、荊州に足場に蜀へ入ることを目指すも、急逝してしまう。そして、周瑜の後任になった魯粛は、シビアな周瑜とは違い、親劉備はであった。魯粛は、劉備に荊州を正式に貸与し同盟関係を維持するように孫権に進言し、孫権もそれを受け入れた。こうして、荊州問題も一応の解決をみる。この劉備が孫権と手を結び、荊州に根拠地を得たとことは、大いに波紋を呼び、曹操は、この情報を得たとき、筆を思わず落としてしまった。
こうして荊州をおさえた劉備は、建安十六年にいよいよ蜀の攻略に取り掛かる。この間、諸葛亮を軍師に迎えてからわずか四年しか経過していない。
寸土も持たなかった劉備をここまで押し上げたのは、ひとえに劉備に賭けた若き軍師諸葛亮の力にほかならない。そのグローバルな戦略、流動する情勢に即座に対応する柔軟な判断力によって、諸葛亮は電光石火、当時の中国世界の権力バランスを変えたのである。炯眼の曹操がショックを受けたのも無理はない。(抜粋)
ここの荊州のあたりは前章の「周瑜伝」とかぶっているね。まぁ当然だけども。ココあたりを参照してください。(つくジー)
初出掲載誌:(「歴史群像」九二年六月、学研+「ザ・ビッグマン」九二年八月、世界文化社)

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