周瑜の見果てぬ夢 - 周瑜伝(その4)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 周瑜伝(その4)

今日のところは「周瑜伝」の“その4”である。「赤壁の戦い」を制した後、周瑜は蜀の攻略を狙う。しかし、その手掛かりとしの荊州攻略で劉備たちと争いになる。しかし周瑜は志半ばで病魔に斃れてしまい、その夢は破れる。それでは読み始めよう。

荊州の戦い

荊州をめぐる周瑜と曹仁の戦い

「赤壁の戦い」のあと、いよいよ荊州の支配権をめぐる戦いが起こる。荊州は蜀をうかがう位置にあり、諸葛亮の「天下三分の計」魯粛の「天下二分の計」ココ参照)でも重要な位置となっていた。

「赤壁の戦い」の後、敗走した曹操は江陵に曹仁と徐晃じょこうを、楽進がくしんを襄陽に駐屯させ荊州の抑えとし、自身は北方へ戻っていった。

曹操を追ってきた周瑜と程普は長江を隔てて曹仁と対峙する。ここで周瑜は自ら敵の流れ矢にあたり負傷するなど、苦しい戦いをしたのちようやく江陵から曹仁を撤退させた。そして、周瑜は江陵城に入り南部の太守に任命され、いよいよ荊州経営へとりかかろうとした。

ところが、周瑜が曹仁と死闘を繰り返していた間に、荊州情勢は思わぬ方向に展開していた。「赤壁の戦い」の間、高みの見物を決めこんでいた劉備が、曹操の敗北と同時に行動を開始し、一騎当千の関羽・張飛・趙雲らを派遣し、またたくまに、荊州南西部の武陵ぶりょう長沙ちょうさ桂陽けいよう零陵れいりょうの四郡を制圧したのである。(抜粋)

劉備は、先の荊州の支配者劉表の長男劉琦りゅうきを荊州刺史に据え、荊州での権力地盤を固めた。そしてその頃やっと周瑜は荊州南部の支配権を確立したのである。

周瑜の夢と諸葛亮の夢

そして、劉琦りゅうきが病死しすると劉備は自ら荊州のぼくを名乗り、周瑜の陣取る江陵のすぐ南まで進出する。ここで荊州をめぐる周瑜と劉備が至近距離で睨み合う体制となった。

この劉備の行動は諸葛亮の天下三分の計の一環である。天下三分の計では、まず荊州をおさえ、そこから益州えきしゅう(しょく)へ進出するというものである。一方、周瑜にしても呉の版図を荊州まで広げ、さらにそこから曹操の華北を狙うのが最終目的であった。そのため、

周瑜の夢と諸葛亮の夢は、まっこうから衝突する宿命にあったというべきであろう。(抜粋)

孫権は、荊州における劉備の勢力が強化されるのを危惧し、自分の妹を劉備に嫁がせて、その動きを牽制し、一時は両者の緊張関係は解かれた。しかし、その後劉自らら、孫権の居城に出向き、荊州の支配権を要求した。この時周瑜は孫権に手紙を届けた。

「劉備は英雄であり、また関羽・張飛といった猛将を擁しておりますから、いつまでも人の下で使われているはずがありません。私が考えますに、劉備を移して呉に留め、りっぱな宮殿を造ってやり、多くの美女をはべらせてその耳目をたのしませてやります。
その一方で、関羽と張飛を別々の地方に配置し、たとえば私のような者が、彼らを手足として使い戦いを進めれば、天下統一の大事業の成功も確実です。みだりに土地を分け与えて劉備のための基盤を作ってやり、彼ら三人をいっしょに国境地帯に放置なされば、いつか龍が雲雨を得て天に昇るように、おそらくいつまでも池中に留まることはないでしょう」(抜粋)

しかし、孫権は曹操を脅威に感じ、できるだけ多くの英雄を手元に引き付けておきたいと思い、この分断作戦を受け入れなかった

劉備は後年、この事を知り次のように言った。

「天下の知謀の士は同じことを考えるものだ。あのとき、孔明が京口に行くなと言ったのも、このことを心配したためだったのだ。危なかった。あのまま留まっていたらあやうく周瑜に一杯食わされるところだった」(抜粋)

周瑜のみはてぬ夢

このころ孫権は、劉備に協働して蜀を攻略しようと申し入れたことがあった。しかし、単独で蜀を得ようとしていた劉備は、申し出をのらりくらりとかわして、その件は立ち消えになる。孫権はこうして蜀侵略を一旦諦めたが、周瑜はあきらめなかった。彼は劉備を当てにせず、自分だけで蜀に向かおうとした。

そのころ蜀の支配者劉璋りゅうしょうは、道教の一派の襲撃を受け動揺していた。周瑜はこの機に乗じて蜀を得ることを計画し孫策の許可を得るために赴いた。

周瑜の策は、まず蜀を奪い、その上で馬超と同盟を結んで、その後北上し曹操を追い詰めていくというものだった。この計略ならば北方制覇も夢ではないと、孫権に訴えた。

これはいかにも孫策とともに、疾風のように江東を制覇した周瑜らしい、機動性にあふれる戦略である。ポイントをずばり押さえ、勢いにまかせて短期決戦にもっていこうとするのだ。(抜粋)

しかし周瑜は江陵に戻る途中、巴丘まで来たときに病魔に襲われこの世を去ってしまった。時に周瑜三十六歳であった。死に臨んで周瑜は孫権に手紙を送り、自分の後任として魯粛を推薦する。孫権は直ちに魯粛を周瑜の後任として、軍事最高責任者として荊州のおさえにあたらせた。

ここで著者は、共に若くして夭折した孫策・周瑜の活躍を次のように評している。

それにしても、許襲撃計画の実行直前にテロルにあった孫策といい、蜀攻略・北方進攻計画の実行寸前に病死した周瑜といい、江東の若き獅子たちは、いずれもその戦闘的生涯のクライマックスで、突然、燃え尽きてしまった。閃光せんこうのように輝く、その純度の高い攻撃精神の描く軌跡は、あまりにも美しい。(抜粋)

劉備による蜀の支配

周瑜の後任の魯粛は、劉備や諸葛亮とウマがあったため、周瑜よりもはるかに彼らに協調的であった。魯粛は、劉備がすでに奪取していた荊州南西部の四郡を、正式に劉備に貸与するように孫権に進言し孫権もこれを受け入れた。そして、そこを足掛かりに劉備は蜀を攻略した。

ここで著者は、周瑜が後任に魯粛をあてれば、このような展開になることは分かっていたはずである、と言っている。しかし、周瑜は劉備主従の実力を知っていたからこそ、自ら亡き後の呉を憂い、危険な賭けをしない柔軟路線の魯粛を提案したのである。

劉備は、周瑜が亡くなった翌年に蜀に侵攻し、三年後に蜀を制覇する。そして、西涼の馬超もそのころ劉備の傘下に入った。さらに翌年には、曹操との激戦のあげく、漢中も劉備のものとなる。しかし、関羽の敗死、劉備の敗北により、荊州は結局、曹氏の魏と孫権の呉に奪われてしまう

周瑜の好敵手だった諸葛亮は、残された蜀の国力をあたうかぎり充実させたうえで、周到かつ執拗に漢中から出撃して北伐を繰り返し、華北を狙い続けた。生き急いだ周瑜が蜀の領有を足がかりに、電光石火、実現しようとした北方制覇の夢を、諸葛亮は慎重に時間をかけて紡ぎつづけたのである。(抜粋)

ここで著者は、正史『三国志』の著者陳寿が諸葛亮を評した言葉けだし応変の将略はその長ずるところにあらざるか(思うに臨機応変の戦略は、彼の得意とするところではなかったのだろうか)」を紹介し、諸葛亮と周瑜を比較している。

つまり、周瑜は臨機応変、イチかバチかの、機略を操る勝負師であるのに対し、諸葛亮は理攻めの正攻法が身上である。

こうした戦略の差異、ひいてはパーソナリティーの差異にもかかわらず、周瑜と諸葛亮が描いた夢の軌跡は、やはり究極のところでぴったりと一致する。江東をおさえて北方へ進撃し、天下を統一すること。周瑜は、そして諸葛亮も、まぎれもない乱世の男だったのである。(抜粋)

初出掲載誌:(「歴史群像」九三年十月、学研)

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