受け継がれゆく思想 — 弟子たちとの交わり(その7)
井波 律子 『論語入門』より

Reading Journal 2nd

『論語入門』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三章 弟子たちとの交わり(その7) — 4 受け継がれゆく思想

今日のところは、「第三章 弟子たちのとの交わり」(その7)である。第三章は孔子と弟子との交わりに関わる条が集められていた。今日のところは第三章の最終節である。ここでは、孔子の没後にその思想を受け継いだ曾氏そうし子夏しかにスポットがあてられる。

この曾子そうしは、孔子が率いていた原子儒家集団をおおむねまとめて行った人である。そして、その後、孔子の孫の孔汲こうきゅう(あざな子思)が受け継いだ。孟子は子思の弟子に学んだとされ、後世の宋代儒学はこの孔子・曾氏・子思・孟子の流れを正統とした。

子夏は、孔子の死後、西河せいがで弟子の教育にあたり、文候ぶんこうに招かれ、その師となった。性悪説を唱えた荀子は、子夏の系統を受け継いだとされる。

こうしてみると、性善説を唱える孟子は曾氏の系統につながり、性悪説を唱える荀子は子夏の系統につながることになる。こうして孔子の思想は弟子の手を経てさまざまなヴァリエーションを生みながら、後世へと伝搬されていったのである。(抜粋)

ここで出てきた孟子と荀子ですが、同著者の『故事成句でたどる楽しい中国史』に詳しく載っているよ。孟子はココ、荀子はココを参照してくださいませませ。(つくジー)

曾子 — 思想を広める

No.102

曾子曰そうしいわく、たびかえりみる。ひとためはかりてちゅうならざるか。朋友ほうゆうまじわりてしんならざるか。ならわざるをつたうるか。(学而第一)(抜粋)
曾子は言った。「私は毎日、三つの事について反省する。他者の相談に乗りながら、まごころを尽くさなかったのではないか。友人との交際で、信義を守らなかったのではないか。よく理解していないことを、後輩に伝授したのではないか、と」(抜粋)

著者は、この条を、いかにも実直で生真面目な曾子らしいと、評している。曾子は、「ぐず」と評されるNo97こともあったが、篤実で手堅く、孔子亡き後に一門を取りまとめるには最適任者だった。

No.103

曾子そうし 疾有やまいあり。孟敬子もうけいし れをう。曾子言そうしいいていわく、とりまさなんとするや。くことかなし。ひとまさなんとするや、げんし。君子くんしみちたっとところものさん容貌ようぼううごかせば、ここ暴慢ぼうまんとおざかる。顔色がんしょくただせば、ここしんちかづく。辞気じきだせば、ここ鄙倍ひばいとおざく。籩豆へんとうことは、すなわ有司有存ゆうしそんす。(泰伯第八)(抜粋)
曾子そうしが重態になったとき、孟敬子もうけいしが見舞った。曾子は彼に対していった。「絶命直前の鳥の鳴き声は哀切であり、絶命直前の人間の発言は誠実だと申します。君子が礼の道において、尊重すべきことが三つある。第一に、立ち居ふるまいに気をつければ、他人の暴力や侮りから遠ざかることができます。第二に、顔の表情を正しくおごそかにすれば、人からだまされないという状態に近づくことができます。第三に、言葉づかいに気をつければ、他人の下品で道理にあわない言葉が耳に入らなくなります。籩豆へんとう(祭祀用の器)のことなどは、担当の役人にまかせればよろしい」。(抜粋)

ここで前置となっている二句とりまさなんとするや。くことかなし。ひとまさなんとするや、げんし。」は、当時のことわざであったようであるが、後世、名言として広く流布した。

ここで曾子は、三つのことを注意するが、ここでの訳は、他人から嫌な目にあわないための注意とする伝統的な解釈である。

No.104

曾子曰そうしいわく、もっ弘毅こうきならざるからず。任重にんおもくして道遠みちとおし。仁以じんもっおのれにんす。おもからずや。して後已のちやむ。とおからずや。(泰伯第八)(抜粋)
曾子そうしは言った。「たるものおおらかで強い意志をもたなければならない。その任務は重くて、道のりは遠いからである。仁愛の実践を自分の任務とするのだから、なんと重いではないか。死ぬまでがんばって完了するのだから、なんとはるばる遠いではないか」。(抜粋)

ここで曾子は、強い意志を持ち、仁の実践に死ぬ瞬間まで頑張る「士」にエールを送っている。著者は、この言葉を「時を超えて、今もなお人を鼓舞する言葉である」と評している。

子夏 — 学問を受け継ぐ

No.105

子夏曰しかいわく、けんけんとしていろえ、父母ふぼつかえてちからくし、きみつかえていたし、朋友ほうゆうまじわるに、いて信有しんあらば、いままなばずとうといえども、かなられをまなたりとわん。(学而第一)(抜粋)
子夏しかは言った。「賢者を賢者として美女のように尊重し、父母につかえて力のかぎり尽くし、君主につかえて骨身をおしまず、友人との交際において、自分の言ったことに誠実であるならば、たとえその人が正式に学問をしたことがなくとも、私は必ず学のある人として認める」。(抜粋)

著者は、この発言については、様々な解釈があるとしている。解釈が分かれるのは「けんけんとしていろえ」の部分であるが、ここでは、開放的なニュアンスのある伝統的な注(古注)によったとしている(古注についてはココ参照)。

また著者は、子夏が正式な学問をしていなくても、実践や行動において優れた人物を、高く評価したことは、実践を重視した孔子の薫陶にようるものであろう、と言っている。

No.106

司馬牛憂しばぎゅううれえていわく、人皆ひとみ兄弟有けいていあり。ひとし。子夏曰しかいわく、商之しょうこれをく。死生命有しせいめいあり。富貴天ふきてんり。君子くんしけいしてうしなく。ひとまじわるにうやうやしくして礼有れいあらば、四海しかいうち兄弟也けいていなり君子何くんしなん兄弟無けいていなきをうれえんや。(顔淵第十二)(抜粋)
司馬牛しばぎゅうが嘆いて言った。「人にはみな兄弟があるのに、私だけはない」。子夏しかは言った。「わたし(子夏の本名)は、「人間の生き死にには定めがあり、富貴は天の与えた運命だ」と聞いている。君子たる者が慎む深く過失をおかさず、他人と丁重に礼儀正しく交わったならば、世界中の人がみな兄弟となる。君子は兄弟がいないことなど気に病まないものだ」。(抜粋)

この条では、自分に兄弟がいないと嘆いている司馬牛を子夏が慰めている。

しかし、司馬牛には兄があったという説が古来よりある。孔子が諸国を旅していたさい宗に立ち寄った時、宋の重鎮だった司馬牛の兄、桓魋かんたい司馬魋しばたい)に襲撃されたという事件が起こったという。司馬牛は兄と絶縁状態であったようだが、このことを気にかけ悩んでいたという。

そんな司馬牛があえて「私には兄弟がいない」と言い切り、子夏に孤独感を吐露したところ、子夏は司馬牛が憂鬱になるわけを百も承知でありながら、すべは運命であり、きちんとした態度で他者と交わったならば「四海しかいうち兄弟也けいていなり(世界中の人がみな兄弟となる)」と、ややオーバーな表現で、司馬牛をあたたかく慰めた。司馬牛の来歴を知ったうえで読むと、なかなか含蓄に富む問答である。(抜粋)

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