弟子、孔子を語る — 弟子たちとの交わり(その6)
井波 律子 『論語入門』より

Reading Journal 2nd

『論語入門』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三章 弟子たちとの交わり(その6) — 3 弟子、孔子を語る

今日のところは、「第三章 弟子たちのとの交わり」(その6)である。これまでは、孔子と弟子の交わりを主に孔子の言葉で示された条が取り上げられていた。今日のところ“その6”は、反対に弟子から見た孔子像である。それでは読み始めよう。

弟子、孔子を語る

No.98

おだやかにしてしかはげし。ありてたけからず。うやうやしくしてしかやすし。(述而第七)(抜粋)
先生は穏やかだけれども、きびしい。威厳があるけれど、たけだけしくはない。きちんと礼儀正しいけれども、堅苦しくない。(抜粋)

弟子が孔子の人となりを表した言葉である。

著者は、No20燕居えんきょは、申申如しんしんじょたり。夭夭如ようようじょたり」と合わせて読むと、自然な流露あふれる孔子像が浮かび上がる、と評している。

No.99

顔淵がんえん 喟然きぜんとしてたんじていわく、れをあおげばいよいよたかく、れをればいよいよかたし。れをるにまえり、忽焉こつえんとしてうしろり。夫子ふうし循循然じゅんじゅんぜんとしてひといざなう。れをひろむるにぶんもってし、れをやくするにれいもってす。まんとほっすれどもあたわず。すでさいくすに、所有ところありて卓爾たくじたるがごとし。れにしたがわんとほっすといえども、きのみ。(子罕第九)(抜粋)
顔淵がんえん顔回がんかい)はフーッとためいきをついて言った。「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、切りこもうとするといよいよ堅い。前におられたかと思うと、ふいにまたうしろにおられる。先生は循循然じゅんじゅんぜんと(順序だてて)よく人を前に進ませられる。文化的教養によって私の視野を広げ、礼の法則によって教養をまとめ集約してくださる。途中で学ぶことをやめようと思っても、もうやめられない。自分の全力を出し尽くしたつもりでも、先生はすくっと高みに立っておられる。そのあとについて行こうと思っても、よるべき手だてがみつからない」。(抜粋)

孔子の愛弟子の顔回が孔子を讃えた言葉である。ここで顔回は孔子の偉大さを手放しで感嘆している。

著者は、この顔回の言葉には、はかりしれないスケールをもつ孔子の弟子でありえた幸福感が漂っている、と評している。

No.100

えい公孫朝こうそんちょう 子貢しこういていわく、仲尼焉ちゅうじいずくにかまなべる。子貢曰しこういわく、文武ぶんぶみちいまちず。ひとり。賢者けんじゃおおいなるものり、不賢者ふけんじゃいさきものる。文武ぶんぶ通有みちあらざることし。夫子焉うしいずくにかまなばざらん。しこうしてなんつねらん。(子張第十九)(抜粋)
えい公孫朝こうそんちょう子貢しこうにたずねて言った。「あなたの先生の仲尼ちゅうじはどこで誰について学ばれたのですか」。子貢は言った。「しゅうぶん王・王の道はまだ地上から消滅したわけではなく、人々の間に存在しています。賢明な者はその重要なものを知っているし、賢明でない者でもその重要でないものを知っています。いたるところに文王・武王の道は存在しているのです。だから先生はどこでも誰にでも学ばれなかったことはなく、またきまった先生など持たれなかったのです」。(抜粋)

公孫朝こうそんちょうが孔子はどこで誰について学んだのかと質問したときの子貢の答えである。

孔子はきょうで襲撃を受けた際、文王既ぶんおうすでぼっす、ここらざるんや(「周の文王はすでに亡くなっており、(その文化は)ここ、私の身に存在しているではないか」」と述べた。このように孔子は自ら周の文化の後継者だという自負を持っていた。

No.101

叔孫武叔しゅくそんぶしゅく 大夫たいふちょうかたりていわく、子貢しこう仲尼ちゅうじよりまされり。子服景伯以しふくけいはくもっ子貢しこうぐ。子貢曰しこういわく、宮牆きゅうしょくたとうれば、かきかたおよぶ。室家しっかきをうかがいみる。夫子ふうしかき数仭すうじんもんらざれば、宗廟そうびょう百官ひゃっかんとみず。もんもの あるいはすくなし。夫子ふうしうこと、むべならずや。(子張第十九)(抜粋)
叔孫武叔しゅくそんぶしゅくが宮廷で同僚の高官たちに告げて言った。「子貢しこうは先生の仲尼ちゅうじ(孔子)よりすぐれている」。子服景伯しふくけいはくがこれを子貢に話した。子貢は言った。「これを塀にたとえてむいましょう。わたくし(子貢の本名)の塀はせいぜい肩くらいの高さで、家のいいところをのぞき見することができます。一方、先生の塀は何仭なんじんもの高さがあり、門をみつけて中に入らないと、祖先の廟や大勢の役人がいるようすが見られません。その門をみつけられる者は少ないかもしれず、あの方がそう言われるのももっともなことでしょう」。(抜粋)

この叔孫武叔しゅくそんぶしゅくは、かつて孔子の同僚だったが、孔子に反感を持つ人物である。その叔孫武叔しゅくそんぶしゅくが孔子よりも子貢の方が優れていると話した。このことについての子貢の答えである。

子貢は孔子と自分を塀にたとえて表現し、最後に孔子の塀にある門は叔孫武叔しゅくそんぶしゅくのような並みの人間には見つけられないと批判している。

この叔孫武叔しゅくそんぶしゅくは、孔子を正面切って批判したことがあった。これを耳にした子貢は「・・・・仲尼ちゅうじ日月也じつげつなりゆるし。人自ひとみずかたんとほっすといえども、なにをか日月じつげつそこなわんや。まさりょうらざるをなり。(先生は太陽や月のような方であり、他の人間には超えるすべがない。人がいくら無視しようとしても、太陽や月はびくともしない。無視しようとした者が自分の身のほどを知らずをさらけだすだけだ)(子張しちょう第十九)」と、反論している。

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