『李陵 山月記』 中島 敦 著、文藝春秋(文春文庫・現代日本文学館)、2013年
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
「弟子」「李陵」「悟浄出世」「悟浄歎異 –- 沙門悟浄の手記」「中島敦伝 篠田一士」
今日のところは中島敦『李陵 山月記』の”後半“である。前回の「光と風と夢」「山月記」に続き、ここから「弟子」「李陵」「悟浄出世」「悟浄歎異 –- 沙門悟浄の手記」、そして最後に篠田一士による「中島敦伝」となる。それでは順番に読み進めよう。
『弟子』
やっと『弟子』の順番となった。そもそもこの本を読み始めた理由は、井波律子の『論語入門』を読んでいた時、その中の「南子の条」(ココ参照)に刺激された小説に谷崎潤一郎の『麒麟』と中島敦の『弟子』があると書いてあったことが気になったからである。『麒麟』(ココ参照)は、すでに読んでいるので、次は『弟子』というわけです。
谷崎の『麒麟』は、まさに孔子が衛の国に入り、霊公に迎えられ所に始まり、霊公が孔子の教えに従うのを、南子に色仕掛けでつぶされ、孔子一向が衛の国を離れるところで終わっている。まさに、南子の条に焦点を当てているわけである。
これに対して中島の『弟子』は、孔子とその弟子・子路の話である。任侠で鳴らした子路は、孔子を罵倒しようとして逆に孔子に論破され「謹んで教えを受けん」と降参してしまう。その出会いから子路が衛の政変のため憤死してしまうまでを描いている。つまり、南子の条はその一部にすぎない。
子路は孔子の中心的な高弟であるので、論語にもしばしば登場する。この小説は、そのような論語からヒントをもらい書かれている。
ここで気になるのは、第七節の冒頭である。
大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことには変わりない。それは誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐げられるという・ありきたりな事実のついてである。(抜粋)
子路は、この疑問を孔子にぶつけるが、その時は納得するが、結局また分からなくなってしまう。この疑問は中島自身の疑問に思えるし、中島が論語のその答えを探しても子路のようにまた分からなくなってしまうと言うことだと思う。
この小説、井波律子の『論語入門』を読んでいたおかげで事前の知識もあり、楽しく読めた。
『李陵』
次に『李陵』であるが、これはやはり井波律子の『故事成句でたどる楽しい中国史』に出てきた。李陵は、匈奴との闘いに敗れ捕虜となったのだが、降伏した自分を非難し妻子を殺した武帝のやり口に絶望し、その生涯を匈奴のために捧げた、とある。
そして、その李陵をかばったのが『史記』で有名な司馬遷で、そのため武帝の逆鱗にふれ、宮刑となってしまう。そして司馬遷は、「世間の人は私が宮刑に処されたことなど、九牛が一毛を失うくらいにしか見えなかっただろう」と自嘲し、武帝に対する凄まじい怨念を込めて『史記』を完成させた(ココ参照)。(ここから「九牛の一毛」 — ものに数にも入らない事 — という故事が生まれた。)
このくらいを予習として、読み始める。
読んでみると上の司馬遷の話は、この『李陵』の中核となっていた。そして、それに加えて、司馬遷の「九牛の一毛」の項の上にある、李陵と同時期に捕虜となった「蘇武」も重要な登場人物であった(ココ参照)。
『李陵』は三部構成となっているが、
- 李陵が不利な軍勢で匈奴と戦い捕虜となるまで
- 司馬遷が捕虜となった李陵をかばったため、武帝の逆鱗に触れ、宮刑になったこと
- 武帝により一族を殺された李陵が、匈奴に仕えるようになること。そして、反対にあくまでも匈奴に降伏しない蘇武との交流
という内容である。
ここには、李陵、司馬遷、蘇武という三人の男の不幸が描かれている。
李陵は、武帝に不利な状態で匈奴との闘いを強いられる。さらに捕虜になってしまってからも、漢に忠誠を誓っていたが、捕虜となったことを武帝に非難され、讒言により罪を着せられ妻子ともども殺されてしまう。司馬遷は李陵をかばったために宮刑となる。そして、蘇武はあくまで匈奴に降伏しない態度をとったため、北方に追いやられ、乞食同然の形で生き延びなければならなかった。
三人とも何の落ち度もない立派な人間である。それが、一人の暴君のためにこのような不幸に出会ってしまう。それは何故だろうか?中島はそのことを問うていたのではないだろうか?
先の『弟子』では、子路の言葉を通して「邪が栄えて正が虐げられるという・ありきたりな事実」を問うていたが、それと同じことをここでも問うているのだと思う。
そして、その不幸の乗り越え方も三者三様であった。李陵は、その絶望のため匈奴に降参し彼らと共に生きることを選んだ。司馬遷は、父から引き継いだ歴史書の編纂という大事業に、持てる力のかぎりを尽くした。蘇武は、飢えに苦しみ寒さをしのぎ、漢に忠義を尽くし続けた。中島は、その生き方の違いを描くが、優越を示すことはしていないのである。
ここの部分は、人間がその運命にどう挑むべきかという問題があるのだと思う。そして、それは旧約聖書の『ヨブ記』に示される問題にも通じるものがあると思った。今、ちょうど『ヨブ記』の入門書である『ヨブ記 その今日の意義』(浅野 順一著)を読んでいてそう思う。人間の根源的な問題は古今東西を通じてやはり共通のものがあるんですよね。(つくジー)
「悟浄出世」「悟浄歎異 –- 沙門悟浄の手記」
「悟浄出世」「悟浄歎異」は、共に西遊記の沙悟浄の話である。巻末の篠田一士の中島敦伝によると、順番としては「悟浄歎異」の方が早く、まだ中島が「光と風と夢」で文壇に登場する前の作品であるようだ。そして、その後に書かれた「悟浄出世」と合わせて、「わが西遊記」とし一括されているとのことである。
「悟浄出世」は、悩みを持った妖怪の悟浄が、その悩みを解決するためにほうぼうの(妖怪の)道士や隠士、僧やなどなどを訪ね教えを乞うというものである。数々の教えを聞き、時には危うく食べられそうになってまで悟ろうとするのだが、結局、どれもまちまちで分からないままとなってしまった。
もはや誰にも道を聞くまいぞ、渠は思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」と悟浄は独言をいいながら帰路についた。「『お互いに解っているふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束の下にみんな生きているらしいぞ。こういう約束が既にあるんだとすれば、それを今更、解らない解らないといって騒ぎ立てる俺は、何という気の利かない困りものだろう。全く。」(抜粋)
そして悟浄は、「結果の成否を考えずに、試みるために全力を挙げて試みよう」と思うのであった。
そして、悟浄は夢の中で仏の声を聞く、仏は悟浄に「ただ身を動かすことによって自らを救おうと心がけるのがよい」と諭した。そして、玄奘法師一行が近くを通るからそれに従って西方へ行けと命じた。
この話では、悟浄が訪ね歩く様々な思想や宗教などが出て来るが、どれももっともらしが、よくわからないような教えである。一つひとつに教えのモデルがあるのかもしれないが、数が多いので、それらを批判するというよりも、誰も解っていないことをしているのだろうと思った。そして最後の「結果の成否を考えずに、試みるために全力を挙げて試みよう」というのが、ようするに中島自身の悟りだったようである。
「悟浄歎異」の方は、「沙門悟浄の手記」とあるように、悟浄からみた、悟空、三蔵法師、それから猪八戒の印象のメモである。
「中島敦伝 篠田一士」
巻末に篠田一士による「中島敦伝」が添えられている。これは、中島敦の人生を年代を追って書き進めるような伝記でなく。中島文学とは何かをその人生から解き明かすような構成となっている。
中島は儒家の家に生まれ、両親ともに教員だった。その出自、叔父の儒学者斗南からの影響、耽美派からの影響などを考察しその文業に迫っている。
ぼくは中島敦の文業での全体をつらぬくものは唯美をもとめる純粋な心だったと、もう一度くりかえしておきたい。ただ、その心がどれほど傷つき、苛[さいな]まれたか、そして、また、そのはてに成就された、あのかずかずのめざましい作品がいかなる内実のにがさをためているか --- それを知ることは、とりもなおさず、作品のもつ意味合いを深めることになるだろう、とぼくはひそかに確信する。以下中島敦の伝記を書き記すぼくの興味はひとえにこの一点に関するはずで、それを別として、彼の伝記それ自体がぼくの関心をよぶことは、ほとんど考えられないのである。(抜粋)
関連図書:
井波 律子 (著)『論語入門』、岩波書店(岩波新書)、2012年
井波 律子 (著)『故事成句でたどる楽しい中国史』、岩波書店(岩波ジュニア新書)、2004年
浅野 順一 (著)『ヨブ記 その今日への意義』、岩波書店(岩波新書)、1968年


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