『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第十五章 日本仏教の可能性 まとめ (その1)
今日から「第十五章 仏教思想の可能性 まとめ」に入る。ここでは、本書のまとめとして、三人の著者それぞれの観点から日本仏教の可能性について論じている。
第十五章は、各節ごとにまとめるとする。今日のところは、頼住光子によるまとめとなる。頼住は日本仏教研究の歴史を概観し、そして、共生をキーワードにして日本仏教の可能性を示している。それでは読み始めよう。
はじめに
ここで、本書の今までの各章の内容を振り返る。
- 第一章:日本仏教の位置づけを概観:担当・末木 文美士
- 第二章~第六章:日本仏教の中核となる思想の問題を祖師たちを中心に検討:担当・頼住光子
- 第七章~十章:近年注目されている近代仏教について:担当・大谷栄一
- 十一章~第十四章:従来の研究で見落とされがちな日本仏教の特徴:担当・末木 文美士
これを踏まえ、各部を担当した筆者三人によるまとめが本章である。
本章では筆者三名がそれぞれの担当章を振り返るとともに、論じきれなかったところを補い、それに基づいて今後の日本仏教のあり方についての展望を論ずることにした。(抜粋)
1.仏教思想の観点から(頼住光子)
第二章から第六章のまとめ — テクストとの対話
まず、第二章から第六章について、担当した頼住は、聖徳太子、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮のテクストを手掛かりとして、仏教を哲学・思想として読み解いた、とまとめている。そして各章については、
- 第二章:仏教を人間や共同体にとって「超越的なるもの」という視点でとらえ、その日本の思想文化への影響を儒教と対比しつつ論じた。さらに「十七条憲法」の「和」に着目し仏教の発想が日本にどのように根づいたかを検討した。
- 第三章:平安仏教の最澄と空海を取り上げ、最澄の法華一乗思想と大乗戒、空海の曼荼羅的思惟の思想を検討した。
- 第四章:鎌倉仏教の視座についての検討、さらに法然と親鸞の阿弥陀仏や浄土、念仏に関する見方を扱った。
- 第五章:道元の『正法眼蔵』を取り上げ、そこから道元の「修証一等」「行持道環」の思想を検討し、全時空における連続性、修行と悟りの連続性の意味を解明した。
- 第六章:日蓮の生涯と思想を検討し、「法華一乗」「一念三千」などの思想を検討した。
としている。
各章の検討においては、大乗仏教の基本思想である「縁起 – 無自性 – 空」について特に留意した。(抜粋)
鎌倉新仏教と親鸞や道元の思想の意義
従来の日本仏教の研究は、いわゆる鎌倉新仏教を中心としてきた。それは、日本仏教研究が、近代になってウェスタン・インパクトのもとに再出発したという事情を反映している。(抜粋)
鎌倉新仏教史観の端緒となった原勝郎の『東西の宗教改革』では、親鸞の阿弥陀仏の絶対他力の主張を、宗教改革者ルターの「信仰のみ」の強調と重ね合わせている。さらに、和辻哲郎は、『沙門道元』で道元研究を宗門から解放し「人類の道元」なることを宣言している。
このように、西洋の思想・宗教を基準とし、親鸞や道元が世界に通用するという主張がなされ、鎌倉仏教は高く評価された。しかし、黒田俊雄による権門体制論によって、このような考え方は、すくなくとも相対化されることになる(ココ参照)。黒田は、中世仏教の正統は、南部六宗と平安二宗からなる顕密仏教であり、鎌倉新仏教は異端に過ぎなかったと主張した。
この議論によって、呪術的かつ折衷的な貴族仏教を克服して内面の信仰を重んじる民衆的な鎌倉新仏教が台頭したとする、従来の「鎌倉新仏教史観」が疑問に付されることになった。(抜粋)
このような主張があるが、著者はそれによって親鸞や道元の思想の異議が否定されるものではないと反論している。
社会的な観点から見て正当であろうが異端であろうが、その思想家が、時代的風土的条件の中で、「人はどこから来てどこへ行くのか」「他者をどう理解し、何を為すべきか」等の人間としての普遍的課題に取り組んだことの異議は否定されない。(抜粋)
近代の自我と「共生」
現在は、「共生」の必要性、重要性が認識されてきている。ここ著者は、現代との関り仏教を考えるにあたり「共生」を取り上げるとしている。
近代は「共生」が困難な時代である。なぜならば近代は「認識主体としての自己」を基本単位にする時代だからである。そこでは、理性によって世界を操作・支配する「我」が中心となり、自我と対象、自我と他者という二元対立構造が前提となる。そのため、何らかの協調が成り立つ場合であっても、常に相手からの反対給付がある「ギブ・アンド・テイク」の条件付き関係となる。このとき、短期的に見返りを期待できない相手との関係は忌避され、見返りを期待できない者(社会的弱者など)との関係など最初から除外されてしまう。このような状況では、「共生」を生み出すことはできない。
和辻哲郎と「空の弁証法」
このような孤立的な自我から出発する近代的人間観の問題性を鋭く指摘したのが、先にも触れた和辻哲郎である。(抜粋)
西洋思想文化の研究をしていた和辻は、偶然の道元の著作を読み、日本にも西洋に勝るとも劣らない思想家がいたことに感激し、仏教の研究を始めた。そして和辻は「空の弁証法」を提唱することになる。
和辻の「空」は、あらゆるものが固定的な実体・本質を持たず、さまざまなものと関わり合いの中でそのようなものとしてその時、その場で成立しているに過ぎないということである。そしてこのような「空」の理解をヘーゲルの弁証法と結びつけて「空の弁証法」と呼んだ。
それは、「空が空じる」、すなわち、「空」それ自身が自らを否定することであるとした。そしえ、和辻は、「空」を全体性とし、さらに、「空」を「空じる」(否定する)ことで、個体性が現れるとした。この「空を空じる」という「空の弁証法」は、個と全体とが互いに否定しあいながら展開していくということを意味し、和辻にとって、これこそが、人間存在の基本的構造だったのである。(抜粋)
自己は自己以外のあらゆるものとの関係の中で初めて自己となり、さらに、自己が個として存在することは、全体から背き出て全体を否定し、個となることであるが、そこで終わりなのではなくて、今度は個であることを否定し全体を還帰する、このような全体 – 個 – 全体・・・・・という否定の無限の連続過程こそが「空の弁償法」である。(抜粋)
このような全体との無限の関係の中で自己が自己として成立し、自己が自己であることを超えて新たな自己となっていく。そしてこのような考えから和辻は、利益社会を批判した。
近代的人間観を超えて、我々が「共生」を考える時に、孤立したコトギから始めるのではなくて、間柄(人間関係)の中での自己形成を強調する和辻哲郎の「間柄」の倫理学は示唆的であるし、その成立に決定的役割を果たした仏教の存在も見逃せないのである。(抜粋)
道元の「布施」観
最後に、著者は「共生」に対する道元の言葉を引いて、頼住からの補足を締めくくるとしている。
道元は『正法眼蔵』の「菩提薩埵四摂法」で菩薩が衆生を教え導く四つの方法を述べている。
- 「布施」:衆生にたいして施しをする
- 「愛語」:親愛に満ちた言葉をかける
- 「利行」:行為を通じて利益を与える
- 「同事」:分け隔てなく活動を共にする
ここで道元は、これらは世俗でも行われるが、仏教の場合は、「自他一如](自己と他人とは一体である。ただしこれは同一性の強制ではなく関係性の成立による多様性の承認である)の基盤の上で行われている、している。
道元は布施に関して「すつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし」と言っている。通常、施しは、自分の所有物を他者に与えることであるが、道元は「布施」はもともと自己のものでない物を、誰かのところに捨てられるだけであると考える。つまり不要物の所有権を誰かに与えることではなく、自分が所有しておらず、執着もしていない物を他者に施すのであると言っている。
元来、「自他一如」であれば、自他の区別も所有という観念もなく、「布施」といっても己の所有物を与えたり与えられたりということではなく、必要な物が必要な人の所に落ち着くということに過ぎない。このような「布施」を可能とする「自他一如」こそ、われわれが「共生」を表面的なものとしてではなく、真の意味で理解する上で大きな手がかりとなるであろう。(抜粋)


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