『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第九章 グローバル化する仏教 近代の仏教3(大谷栄一) (その1)
今日から、「第九章 グローバル化する仏教」に入る。ここまで、「第七章 廃仏毀釈からの出発」(”その1”、“その2”、“その3”)、「第八章 近代仏教の形成」(”その1”、“その2”、“その3”)で明治初期からの仏教の変遷と近代仏教の誕生について、学んだ。それを受けて、第九章のテーマは、仏教のグローバル化である。
第九章も節ごとに3つに分けてまとめることにする。今日のところ“その1”では、日本の仏教のグローバル化を概観する。それでは読み始めよう。
はじめに
近代仏教の特徴は、仏教のグローバル化である。仏教は明治初期より「欧米やアジアへの渡航」さらに「シカゴ万国宗教会議への出席」などを行っている。
「仏教」をめぐる東洋と西洋の関係、西洋のオリエンタリズムと植民地主義の影響など、錯綜したまなざしや権力関係が見られる仏教のグローバル化の諸相を分析する。(抜粋)
本章では、明治初期から明治二〇年代までの日本仏教徒グローバルな活動を検討することで、グローバル化が日本の近代仏教の形成に与えた影響を考察する。
1.グローバル化の始まり
世界に広がるZEN
まずここで、明治期より始まった日本仏教のグローバル化の例として禅(ZEN)を取り上げている。
現在、禅は世界に広がり、アメリカではZENとして定着している。ケネス・タナカの『目覚めるアメリカ仏教』(二〇二二年)によると、アメリカの仏教徒の数は、二〇二〇年に約三三〇万人で人口の1%となった。そして仏教に共感している人は約一七〇万人、仏教から重要な影響を受けたと考えている人がさらに二五〇〇万人いる。これらを合計すると人口のおよそ一〇%の人が仏教に何らかの影響を受けていることになる。
禅はもともとインドのヨーガが仏教に取り入れられたものである。これが、インド僧の菩提達磨により中国に伝えられ、それが唐代から宋代にかけて「五家七宗」と呼ばれる中国禅が成立した。そして一二世紀~一三世紀に入宋した栄西によって臨済宗が、道元(ココ参照)によって曹洞宗が伝わる。そしてその伝統が一九世紀後半にアメリカに伝えられた。
この禅がZENになるのに際して重要な影響を与えたのが「二人の鈴木」、鈴木大拙と鈴木俊隆である。
鈴木大拙は、渡米し『大乗仏教概論(Outlines of Mahayana Buddhism)』 や『禅論(Essays of Zen Buddhism)』 など三〇冊以上の書物を出版した。
鈴木俊隆(曹洞宗)は、渡米しサンフランシスコに禅センターを開設し、ヨーロッパ系アメリカ人に座禅を教え、禅を広めた。彼の『禅マインド ビギナーズ・マインド(Zen Mind、Beginner’s Mind)』は、世界中に翻訳された。
ヨーロッパの渡航と仏教学との出会い
日本仏教徒の海外渡航は真宗教団から始まった。
明治五年に、真宗本願寺派の 島地黙雷、赤松連城ら五名がヨーロッパに渡航する(ココ参照)。そして同年に真宗大谷派の大谷光瑩、石川舜台、松本白華ら五名も欧州視察に出かけている。これは、明治初期の仏教をめぐる危機的状況の中で、仏教の近代化とキリスト教への対抗や排除が目的だった。このような西洋文化の摂取は、留学でも行われた。
ここでは、真宗大谷派の南条文雄と笠原研寿の例(ココとココを参照)が書かれている。南条と笠原が渡英した際に、仏教学者のリス・デイヴィズからパーリ語(南方上座部仏教の聖典語)を学ぶように助言されたが、それに従わずオックスフォード大学のマックス・ミュラーからサンスクリット語と文献学を学んだ。これは、浄土教のサンスクリット経典を学ぶためであった。
西洋における「ブッディズム」の発展
リス・デイヴィズの助言にも関わらず南条らがミュラーのもとでサンスクリット語を学んだことは、西洋における「ブッディズム」の発展の歴史と関係がある。ここでは、まず、西洋のブッディズムの歴史を概観している。
日本の「仏教」(ココ参照)と同じように西洋でも「ブッディズム(Buddhism)」という言葉は、近代以前には存在しなかった。
西洋では、一八世紀末ごろから東洋学が発展し、仏教学が形成された。その中で「ブッディズム」という言葉が一九世紀前半に生まれた(C・アーモンド)。このころ西洋世界に仏教が伝わった背景には、アジアにおけるイギリス、フランスの植民地主義的な進出があった。「ブッディズム」は西洋の植民地主義とオリエンタリズム(西洋を優位、東洋を劣位と位置づけ、西洋が東洋を支配するための見方)に根差していた。
西洋の仏教研究は文献研究として始まる。そして、一九世紀の仏教学者は、ブッダの言葉をそのまま伝えているとしてパーリ経典、初期仏教、上座部仏教を重視した。そして、ブッダ滅後に成立した大乗仏教の経典は価値が低いものとされた。
そのためリス・デイヴィズは南条と笠原にパーリ語を学ぶように助言したのである。南条と笠原は、ミュラーについてサンスクリット語を学んだが、ミュラーの大乗経典に対する評価は低かった。
こうした西洋の仏教学における大乗非仏教説は、その後、日本の仏教界にも大きな波紋を投げかける。西洋近代の仏教学との出会いは、日本の仏教が依拠する大乗仏教の正統性を揺るがしたのである。(抜粋)
アジアへの布教と留学
日本の仏教徒は、ヨーロッパだけでなくアジアにも布教と留学のために訪れた。
真宗僧侶の小栗栖香頂は、上海に上陸し大谷は別院を作り布教をしている(後に中止)。真宗大谷派はそれ以外にも韓国や台湾で布教を進めた。その他日蓮宗が釜山で、真宗本願寺派がウラジオストク、浄土宗がハワイでそれぞれ布教をしている。
東アジアでの各宗派の布教が本格化するのは、日清・日露戦争を通じてであり、それは日本の戦争や植民地主義政策と密接に関連していた。(抜粋)
明治期になると鎖国が解かれたため、インドや上座部仏教の中心地のセイロン(現在のスリランカ)、チベット仏教が信仰されているチベットなどを訪れることが可能となる。
ヨーロッパに渡航した島地黙雷や松本白華らは、その渡航の途中にインドに上陸し仏跡巡礼をしている。また、セイロンはヨーロッパへの航路の途中にあり、さらに上座部仏教が初期仏教に近く西洋仏教学の知見もあったため留学先に選ばれた。
実際にセイロンに留学して、上座部仏教の僧侶として学んだ日本人僧侶として「二人の釈」と呼ばれる釈興然と釈宗演がいた。
興然は真言宗の僧侶で、仏教復興のため戒律主義をとなえた釈雲照の甥であった。興然は雲照に命ぜられてセイロンで仏教研究とパーリ語を学習し、上座部仏教僧侶となるために具足戒を受けた。帰国後は、上座部仏教を日本に移入するために釈尊正風会を設立し、パーリ語を教え、上座部仏教の僧侶の養成を行った。河口慧海や鈴木大拙も興然から学んでいる。
一方、釈宗演は、明治時代の臨済宗を代表する禅匠である。彼は若いとき福沢諭吉の勧めで仏教の源流を究するため、セイロンに赴いた。そして、パーリ語と上座部仏教を学び、具足戒を受け比丘となった。宗演は、セイロンに到着直後に神智学協会を訪ねてアナガーリカ・ダルマパーラとあっている。この出会いの意味するところは後述される。
「二人の釈」のうち、興然は帰国後に上座部仏教を日本に移入することに熱心だったが、反対に宗演の信仰は変わることなく、むしろ、上座部仏教に欠けていた禅の重要性に対する確信を深めた。
関連図書:
ケネス・タナカ (著) 『目覚めるアメリカ仏教』、武蔵野大学出版会、2022年
鈴木大拙(著) 『大乗仏教概論』、岩波書店(岩波文庫)、2016年
鈴木大拙(著) 『禅』、筑摩書房(ちくま文庫)、1987年
鈴木 俊隆(著) 『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』、PHP研究所、2022年
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