『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第五章 道元と禅思想 日本仏教の思想3(頼住光子) (前半)
今日から「第五章 道元と禅思想」に入る。第五章では、日本曹洞宗の開祖で「日本思想史史上最高の思想家」と言われる道元の生涯と思想について、『正法眼蔵』の言葉を手がかりにその特徴を検討している。
第五章は、節ごとに二つに分け、”前半“で道元の生涯を、”後半“で道元の思想についてまとめる。それでは読み始めよう。
禅と禅宗
禅宗は、釈尊から禅宗初祖の摩訶迦葉によって「以心伝心」にて「教外別伝」にて真理が伝わったことを出発点とし、そして菩提達磨によって中国に伝えられたとされる。しかし、これは中国禅宗が自らを正当化するための伝説であり、臨済宗、曹洞宗などの中国禅が確立したのは、唐時代とされる。
禅という言葉のもとになった「禅那」(サンスクリット語のディヤーナ)は、仏教以前の古代インドに起源をもつ。この「禅那」は、「禅定」とも呼ばれ、坐禅瞑想による精神集中を意味している。
1.道元の生涯
出家と天台本覚論への疑問
道元は、京都の上流貴族の家に生まれた。一四歳の時に比叡山延暦寺の天台座主公円の下で出家する。
しかし当時の比叡山の教学に疑問を持つ。その疑問は、「人間は本来、仏の本質である仏性をもっているから悟っており、ありもままで真理を体現する仏である(天台本覚論)のならば、なぜ三世の諸仏は、わざわざ発心して悟りを開くまで修行したのか」というものであった。
天台本覚論
天台本覚論は、天台智顗の教えに端を発する。天台智顗は本覚(本来的悟り)を衆生が備えていることを認めつつ、この世においては、それが実現不可能だとした。これに対してそれが可能だという新たな説が最澄の後継者の円仁などにより編み出された。
そして、天台本覚論は、この世において悟りを開くことができるばかりか、さらにすでに悟っていて、ありのままで仏であり、修行などは不要であるという、極端な議論を導く。道元は、そのような天台本覚論に疑問を持ったのである。(鎌倉仏教の祖師たちは「天台本覚論」と一線を画していた。ココも参照)
中国留学と禅
この疑問を三井寺の学僧公胤に相談すると、公胤は、中国で禅を学んで帰国した栄西が開創した建仁寺に入ることを勧めた。道元は建仁寺に入り明全の下で、臨済禅を学ぶ。
そして、さらに道元は禅を本場中国で学ぶために入宋する。道元の思想的展開は、入宋から始まる。
典座と中国での修行
ここで、著者は道元の『典座教訓』に書いてあったエピソードを紹介している。道元は、老齢の典座(炊事担当の僧)との対話を通して、初めて典座の仕事が単なる雑用でないことに気がついた。
今、ここで、この私が、なすべきことを一心に行う老僧の姿に接して、道元は、日常の一つ一つの行為すべてが修行であることを、初めて身をもって理解した。台所仕事をはじめ日常のあらゆる実践が修行であり、それは坐禅と同等の意味を持つのである。(抜粋)
坐禅と禅修行の原点
ここで著者は、坐禅とは「姿勢と呼吸と心をととのえ、静かに座ることそのもの」であるとしている。そして、近年の禅ブームでは、集中力を高めたり健康法として坐禅が行われることもあるが、禅宗の本来的な意味では、坐禅は「何かを達成する手段でなく、何も目的としない、それ自身で充実し、完結した行為」である、と説明している。
日常の行為というものは、常に何かの目的のための手段であり、その手段によりまた新たな目的が生じ、手段 — 目的の連鎖が続いていく。この連鎖の中にいる人は常に何かの目的のために追い立てられてしまう。
このような連鎖、悪循環を断ち切ろうとしたのが仏教であり、それを、坐禅を通じて行おうとしたのが、道元を含めた禅宗なのである。坐禅とは、何かのためのものでなく、それ自身で充実した行為である。(抜粋)
そして、同じように何かのため手段でなく、それだけで充実した行為を行うことは坐禅と同じように禅の修行となる。
道元が老典座とのエピソードを通じて訴えようとしているのは、「何かに役立てよう」「何かにならなければ」という考えから離れて「今、ここ、この私に徹する」そのことが禅の修行の原点であるということであろう。(抜粋)
身心脱落
中国滞在時に道元は中国曹洞宗の天童如浄の弟子となる。そしてそこで「身心脱落」し悟りを開いた。そして、道元は如浄から受け継いだ禅の教えを日本に伝えるために帰国する。如浄は、道元に嗣法したことの証として嗣書を与える。
嗣法と「無師独悟」「無自独悟」
道元は、『正法眼蔵』において、嗣書の重要性を述べている。師と弟子は、嗣法において「証契」し、「無師独悟」し同時に「無自独悟」する。またこの嗣法は仏から仏、祖師から祖師へと受け継がれ「単伝(真理が直接的に師から弟子へ伝わること)」である。
「証契」とは、師と弟子が悟りにおいて一体(一如)となることであり、「無師独悟」し同時に「無自独悟」するとは、師と弟子が「自他一如」となり、全時間、全空間に広がる仏祖の無限のネットワーク(「縁起 – 無自性 – 空」なる次元)に組み込まれていることを自覚するということに他ならない。(抜粋)
道元の悟りとは、自己と世界が一体になり究極の意味で自他一如が実現する事態である。その時は世俗を生きる自己同一、執着されたものとしての「我」は存在せず、「師」を含めてあらゆるものがが「我」(永遠の不滅の実体)ではなくなる。
「無師独悟」とはこのことを指している。(抜粋)
嗣法の二重の意味
一般に「無師独悟」というと、師を持たずに悟ることを意味するが、道元にとっての「無師」とは、師として依存したり執着したりするなにものもなく、あらゆるものが、「今、ここ」において、自己と一体(一如)であることを意味する。そして、さとりの同時性、一体性故に弟子が師から法を継承するだけでなく、師が弟子から法を継承するという表現も成り立つことになる。
嗣法とは、まさに継ぐべき何物もない、いいかえればあらゆるものが「縁起 - 無自性- 空」であり、一如であるということにおいて、師と弟子が、まさに「今、ここ」で出会い、自覚をともにすることであると考えられるのである。(抜粋)
そして、このような「縁起 – 無自性- 空」の次元とともに「単伝」であることも注意が必要である。道元は天童如浄、さらにその師というようにたどっていけば、原点の釈尊までたどり着けることを意味する。そのためそれぞれが、今、ここ、この私において法を受け継ぐことにより、「縁起 – 無自性- 空」の世界と、有限な今、ここ、この私が重なり合い、同時性と「単伝」性がともに成り立つ。
道元は、「仏祖直伝」の法を自己が受け継ぎ広めていくことに使命感を持ち続けていた。
それこそが道元にとって、同時性のもとにある悟りの世界を、仏祖からの単伝を担う今、ここ、この私が実現し続けるという「修証一等」(悟りと修行は別々のものでなくて一体のものである)の成就なのであった。(抜粋)
帰国後の布教活動
一二二七年、二八歳で中国から帰国した道元は、禅の教えを広めるために『普勧坐禅』を著す。その中で道元は、
- 心構え:「坐禅をするときは、心の捉われや分別を捨てるべきであり、ことさらに仏となろうとしてはいけない」
- 姿勢:「坐禅は坐蒲を用い、結跏跌坐(右足をまず左腿の上に置き、さらに左足を右腿に置く)」また半跏跌坐(ただ左足を右腿におく)せよ」
- 呼吸:「息の出入りは、鼻でごく自然に静かに」
- 顔の向き:「舌は上あごにつけ、唇も歯もきちんと合わせ、目は常に開くように」
と坐禅の行い方を説明している。
道元は、京都の深谷に日本初の本格的な禅院、興聖寺を開き禅の教化に努めた。そして、四四歳の時に越後国に下向し永平寺を建立した。以後ここを本拠地に布教に努め、五四歳で入滅した。
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