親鸞の生涯と思想 — 法然・親鸞と浄土信仰(その3)
末木 文美士 『日本仏教再入門』より

Reading Journal 2nd

『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 法然・親鸞と浄土信仰 日本仏教の思想3(頼住光子) (その3)

今日のところは「第四章 法然・親鸞と浄土信仰」の“その3”である。“その2”は、法然の生涯と思想であった。今日のところ“その3”は、法然の弟子である親鸞の生涯と思想である。ここでは、親鸞の生涯の軌跡を追い、その思想を「絶対他力」をキーワードに考察する。それでは、読み始めよう。

3.親鸞の生涯と思想

親鸞の生涯

親鸞は、中流貴族日野氏の傍流の生まれである。九歳の時に天台座主慈円の下で出家し、二〇年間を比叡山で過ごす。比叡山では常行三昧堂で不断念仏を修する堂僧を務めた。そして二九歳の時に法然の吉水教団(京都東山)に参入した。

親鸞は、このことを「愚禿とく釈の鸞、建仁かのととりれき雑行ぞうぎょうを棄てて本願に帰す(『教行信証』後序後序)。」と書いている。

そして、比叡山での自力の念仏を棄て、法然の他力念仏に帰依したことを、後に「三願転入」としてまとめた。

親鸞自身は、法然の教えに深く傾倒している。「浄土真宗」という言葉を使うときは、「法然から受け継いだ真正な浄土の教え」を意味していて、親鸞は別の宗派を構える意図はなかった。新たな宗派を立ち上げたのは親鸞の血を引く子孫たちであることは注意すべきである。

このころ法然教団へ旧仏教側から弾圧が加わる(ココ参照)。そして親鸞も越後に配流された。この事件をきっかけとして、親鸞は「非僧非俗」を宣言し、生涯、仏道に生きつつ国から公認された正式な僧侶ではないという在り方を貫く。

そして、赦免されあとも、京都には帰らず東国で布教を行う。そして六二、三歳のころに、家族と京都に戻った。その後、東国で造悪無碍うあくむげ賢善精進即身成仏そくしんじょうぶつ知識帰命ちしききみょうなどの異端説が起こる。親鸞は息子善鸞ぜんらん]を派遣するが、善鸞が親鸞の教えに背く発言を行ったため、最終的には善鸞を義絶して事態を収拾した。

そのころ親鸞は八〇代であったが、教団の危機的状況を前にして、多数の著作を執筆した。そして九〇歳で、末娘とされる覚信尼をはじめとする極少数の血縁や弟子に見守れて入滅する。

他力と「空 — 縁起」

親鸞の思想体系の中心に位置する観念は、「他力」である。それは、衆生の救いのために唯一絶対のものという意味で「絶対他力」と呼ばれる(抜粋)

ここで著者は、親鸞の「他力」を大乗仏教における「空 — 縁起」の概念との関係から親鸞の思想について考察している。

まず、「他力」は『無量寿経』で語られる阿弥陀仏の救済力ととりあえず理解される。しかし、ここで大切なことは、親鸞の他力の捉え方では、先行するのは阿弥陀仏でなく「力」そのものであり、これは「空 — 縁起」の場においてその場そのものを実現していく力、「空が空じていく力」と理解される。

大乗仏教でいう「空」は、空っぽで何もないことではなく、「あらゆるものがはたらき合って互いに互いを成立しあっていること(縁起)」であり、はたらきとしての力そのものである。

執着によって「我」を生み出し、「空」であるにもかかわらず自己を実体化して苦しむ衆生にはたらきかけて、空なる場に還帰させることこそが、仏の衆生への「慈悲」である。(抜粋)

そして、衆生を空なる場に還帰させるために、その力(「法身」)は自らを阿弥陀仏として具現化し、種々の方便を設け衆生に働きかけていく。親鸞はこのことを『唯信鈔文意もんいにおいて語っている。

この「法身」は、色形を超えた仏の本質であり、「絶対他力」「空」なる働きである。それが自己展開し、自らを「阿弥陀仏」として具現化する。この自己展開する根源的な力、他力は、「自然のありようを伝える」手だてとする。

これこそが、全時空に遍満し一切衆生の救済のためにはたらき続ける根源的な力、すなわち、「絶対他力」と呼ばれる力なのである。(抜粋)

救済の絶対不可能性と信

親鸞においては、この「絶対他力」への帰依は、本願より衆生を招き救済へと導く阿弥陀仏の呼び声に基づく念仏よってのみ可能となる。

阿弥陀仏からの呼び声に促されて念仏することは、「絶対他力」への自覚である。この自覚において人は本来性としての「空 --- 縁起」なる場と、そこにはたらく「他力」に連なる。(抜粋)

しかし、他方、人は身であることを免れない。親鸞は、実体化されたこの身を強固なものにするという名利と、実体化された他者に執着する愛欲は、この身として世の中にある限り抜きがたいと言う。

救済の絶対不可能性は、すでに他力による救済を成就しながらもその救済さえ喜ばないということを、その極限形態とする。(抜粋)

すなわち、自分では、煩悩をどうしても脱却できないから、阿弥陀仏の救済以外に何も頼ることができないことが明らかとなる。

自己の救済の絶対不可能性の自覚(機の深信)絶対他力による救済の自覚(法の深信)二種深信とよばれ信楽一心しんぎょういっしんの両面にあるとされた。

二種廻向と浄土

『教行信証』では、

  • 往相おうそう:穢土から浄土への往来
  • 還相げんそう:(浄土で開成道後)穢土へ衆生を救済するための帰還

という構造が語られている。

この二つの方向性は阿弥陀仏の「本願力回向えこうによるものであるとされる。

ここで回(廻)向とは、功徳を差し向けることであるが親鸞においては、阿弥陀仏の本願力の差し向けにより往相と還相の二種回向が成立としている。

つまり、念仏者が発心し信心決定して現生正定聚げんしょうしょうじょうじゅ(浄土往来が定まった者)の位に住し、穢土から浄土に往来して即座に仏となる(住生即成仏)往生回向も、そして、住生成仏者が、迷苦の衆生を救うために再び穢土に戻ってくる還相回向も、すべて絶対他力のはたらきによって実現している。(抜粋)

浄土は、色や形を超えた真仏土であり、仏の悟りそのものである(「無為涅槃界」)。そして、この色形を超えた真仏土(光や命、智慧や慈悲などの言葉で表される働きそのもの)へ還帰するために、色形としての浄土である化身士が、衆生のための方便として不可欠であった。


ここに書かれていることは、なかなか難しく「わかった」とは言い難いが・・・・・少なくとも「絶対他力」という言葉で漠然と抱いていたイメージとはだいぶ違っていることは、わかった。(つくジー)

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