法然の生涯と思想 — 法然・親鸞と浄土信仰(その2)
末木 文美士 『日本仏教再入門』より

Reading Journal 2nd

『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 法然・親鸞と浄土信仰 日本仏教の思想3(頼住光子) (その2)

今日のところは「第四章 法然・親鸞と浄土信仰」の“その2”である。“その1”では、鎌倉仏教(第四章、第五章、第六章)の導入として、「鎌倉仏教」に共通した問題を取り扱った。今日のところ“その2”では、法然の生涯と思想を取り扱う。ここでは、法然の生涯を追いながら、「選択」をキーワードにその思想を考察している。それでは、読み始めよう。

2.法然の生涯と思想

法然の出家と比叡山での修学

浄土宗の開祖である法然は、美作みまさか国久米南条稲岡壮(岡山県久米郡久米町南)で生まれた。父は押領使の漆間時国うるしまときくにであったが、法然が九歳のとき、荘園内の内紛から命を落とす。法然は、父の「今度のことは前世の因縁とあきらめ、菩提を弔うために出家してほしい」という遺言により、出家する。そして一五歳の時に比叡山延暦寺に入り正式に出家した。

比叡山では「智慧第一」とうたわ天台教学を学ぶ。そして、一八歳で遁世し、念仏信仰で知られていた比叡山中の黒谷別所の叡空の門下に入り、法然坊源空と称する。ここで法然は、源信の『往生要集』にも親しんだと考えられる。ただし、源信は口称くしょう念仏観念念仏よりも劣っていると見なしていて、これは後に法然の専修念仏の教えとは違っている。

専修念仏の布教

その後、法然は広く法相、三輪、華厳、密教、律等諸法を学ぶ。ここで法然は、三輪宗で行われていた南部浄土教を学んだとされる。天台浄土教では、源信らの観念念仏(心の中に阿弥陀仏や浄土の素晴らしい様子を思い浮かべる修行)が中心だったが、三輪宗では称名念仏などのより容易な修行が中心であった。

これらの体験を通して法然は、末法の世に時期相応の仏教として念仏に傾倒していく。そして、四五歳の時に、唐の善導ぜんどう「一心に専ら阿弥陀仏の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるもの、これを正定しょうじょうごうと名づく。かの仏の願に順じるが故に」(『観無量寿経疏かんむりょうじゅきょうしょ』「散善義さんぜんぎ」)という言葉に触れる。そして「たちどころに余行を捨て、ここに念仏に帰」(『選択本願念仏集』)とし、他の行によらず一心に称名しょうみょう念仏をすれば阿弥陀仏の救いにあずかるという専修念仏の確信を得て、回心かいしんを遂げる。この後、生涯にわたり「偏依善導へんねぜんどう(ひとえに善導による)」を貫いた

ここで著者は、善導は観念念仏を否定しなかったのに対して、法然は原則として認めなかった、と指摘している。

そして、法然は比叡山を去り、東山吉水よしみずで称名念仏と諸経典の学習に励みながら、人々に念仏の教えを説きはじめる

貴賤、男女、老少、善悪、身分の高下などは一切問わず、戒律も修行も全く不要で、口称念仏だけで救われると説く法然の教えは、またたくまに広がり、庶民や武士だけでなく関白太政大臣九条兼実くじょうかねざね夫婦もその熱心な信者となった。(抜粋)

そして、初期浄土宗諸派の始祖となる証空しょうくう西山義せいざんぎ源智げんち(紫野門徒)弁長べんちょう鎮西義ちんせいぎ幸西こうさい(一念義)親鸞(大谷門徒)長西ちょうさい(諸行本願義)らも相次いで入門する。

そして法然は一一九八年に念仏により三昧境に入り極楽の様相を感得し、「三昧発得はっとく己証こしょう」を得る。法然はこれにより称名が神聖な教えだと確信した。著者は、専修念仏が三昧と両立するものとして法然において捉えられていたことは注目に値する、としている。

そして『専修本願念仏集』を関白九条兼実の求めに応じて著する。このとき夢定むじょう中に腰から下が金色に輝く「半金色はんこんじき」の善導が現れ、専修念仏の教えの正しさを証明したという。

法然の臨終と「一枚起請文」

専修念仏の教えが広まると旧仏教側は批判を強めた。法然は摩擦を避けるために、弟子たちに七箇条制誡ななかじょうせいかいを示し、署名させるなどをした。しかし、興福寺衆徒が「新宗を立てるの矢」「万善を妨げるの矢」等、専修念仏の九ヵ条の過失を上げて、念仏停止と法然一派の処罰を求める上奏を行った。

これに対して、後鳥羽院は官女らの無断出家事件をきっかけに、専修念仏禁止を発令し、事件関係者を処分した。官女らと関わった法然の弟が死罪法然や親鸞などの有力な弟子も流罪となる。

その後、法然は赦免され、大谷に帰るが、次第に病のために衰弱する。そして法然は一枚の紙に専修念仏の教えの要義を書いた。それが一枚起請文いちまいきしょうもんである。そしてその二日後、八〇歳で亡くなる。

この「一枚起請文」には、「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知いちもんふちの愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同じうして、知者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」(念仏を信じる人は、たとえ釈尊一代の教えをしっかりと学んだ者であってとしても、何もしらない愚鈍の身になった、尼や在家の信者(入道)のような無知の人々と自分は同じだと思って、知者ぶった振る舞いをせずに、ただひたすら念仏を称えよ)と記され、法然の思想のエッセンスとなっている。

著者は、この「一枚起請文」は、大乗の菩薩(「被救済者の外延の無限拡大化」)という使命に生きた法然の後世への遺言にふさわしいとしている。そして、

法然は、大乗の菩薩として「空 -- 縁起」思想に依拠して、あらゆるものとの一体性(自他不二)を基盤とする共同成仏を目指したという意味で、きわめて正当な大乗仏教の担い手であったと言えよう。(抜粋)

と評している。

「選択」と専修念仏

ここでは、法然の思想を、その特徴である選択せんちゃく(せんじゃく)を中心にまとめる。

鎌倉仏教の祖師たちが学んだ天台宗は、「円(天台)・密(台密)・禅・戒」の四種相承ししゅそうしょう」に常行じょうぎょう三昧(念仏行)を加えた総合的な仏教だった。しかし、鎌倉仏教の祖師は、それらから選択を行い、それに基づいて自らの実践と思想を確立している

その先駆けは法然であるが、法然の選択は主著『選択本願念仏集』の結文によく表れている。それは、一書の内容を簡明にまとめているため「略選択」と呼ばれる。

ここで、著者はその原文を引用して解説を加えている。

ここでは、成仏する方法として、三回の選択をしているため「三重の選択」とも呼ばれる。その選択とは、

  1. 仏の教えを「浄土門」とそれ以外の「聖道門」に分けて、「浄土門」を勧める
  2. 浄土門を「正行せいぎょう(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養)とそれ以外の「雑行」に分けて、「正行」を勧める。
  3. 正業の中で「助業」である読誦・観察・礼拝・讃歎供養をやめて、阿弥陀仏の本願に応じた称名念仏を、「正定」の業として選んで修する。

である。

ここで「選択」の主体は阿弥陀仏であり、阿弥陀仏が「選択」してくれるからこそ、浄土信者が念仏を「選択」し実践できることになる。阿弥陀仏が「選択」した本願を信じ、他力念仏を称えるしかないと説かれている。

法然は、専修念仏の特徴として、

  1. 本願に基づく称名である
  2. 易行であること
  3. 法蔵菩薩(阿弥陀仏)によって「選択」されたため、他の仏教よりも優れている

としている。

法然は、念仏は一回でも救われるが、多く繰り返せと説いた。著者は、この考え方は、道元の修証一等(修行する一瞬、一瞬が、悟りが顕現する)という在り方と行の構造としては類似すると指摘している。

法然は阿弥陀仏の誓願による救済を自覚した時がスタートであり、自らの死がゴールであるとして命の続く限り、念仏を相続するとしている。そして、生涯悪行を尽くした人間が、命の終の際にたった一度だけでも念仏を称えれば浄土往来できるというのは、そのスタート地点とゴール地点が重なっただけであり、長さはさまざまであるが、スタート地点からゴール地点まで念仏を称え続けることには変わりない、とした。

しかし、弟子たちの間には、一回の念仏で救われることを強調する一念仏義となるべく多くの念仏を称えるべきとする多念仏義の間で論争が起こる。そして、一念仏義の主張から、一回の念仏で救われているのだからと、反社会的行為に走る造悪無碍ぞうあむげの徒が出て大きな問題となった。


ここに出てくる一念仏義と多念仏義については、なんとなく知っていた。ただ、法然が多念仏義をとなえ、親鸞が一念仏義をとなえたという認識だった。が・・・・全然違ってた。

法然は阿弥陀仏の誓願を自覚した時(スタート)から臨終のとき(ゴール)まで、念仏を称えなさいと言ったとのことです。でも、多いからより救われるってわけではなく、たまたま誓願と臨終が重なって一回しか念仏を称えられなくても、十分救われるってことだと思う。

え?それなら一回でいいじゃん!って理屈もあるのですが、法然はスタートからゴールまでずっと唱え続けなさいって言ったわけですね。なぜって?・・・・「それが信仰だから」ってことだと思いますよ。(つくジー)

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