鎌倉仏教の特徴 — 法然・親鸞と浄土信仰(その1)
末木 文美士 『日本仏教再入門』より

Reading Journal 2nd

『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 法然・親鸞と浄土信仰 日本仏教の思想3(頼住光子) (その1)

今日から「第四章 法然・親鸞と浄土信仰」に入る。ここでは、まず第四章・第五章・第六章の導入としての鎌倉仏教の特徴を説明した後、法然と親鸞の生涯と業績を追っている。

第四章は、各節ごとにまとめるとして、第1節「鎌倉時代に新たに起こった仏教の特徴」を“その1”、第2節「法然の生涯と思想」を“その2”、第3節「親鸞の生涯と思想」を“その3”とする。それでは読み始めよう。

はじめに(第四章の狙い)

まず著者は、第四章の狙いを

  1. 専修念仏を説いた法然の思想を、選択せんちゃく 本願念仏集ほんがんねんぶつしゅう(『選択集』)」や「一枚起請文」を手がかりに理解する
  2. 絶対他力ぜったいたりきという浄土思想を展開した親鸞の思想を、『教行信証』自然法爾じねんほうに章』に基づいて検討する
  3.  鎌倉仏教の意味を「顕密仏教」「正統と異端」という観点から考え、さらに社会的、政治的、経済的な動向に還元されない思想の固有性、普遍性という視座を紹介する

としている。

鎌倉仏教を捉える視座

まず、鎌倉時代は、浄土宗(法然)浄土真宗(親鸞)時宗(一遍)臨済宗(栄西えい(よう)さい曹洞宗(道元)日蓮宗(日蓮)などが活躍し、日本で最も仏教がさかんな時期とされる。

しかし、このような「鎌倉仏教」の見方には、近年、疑義が呈されている。(第十五章「仏教を哲学・思想として読み解く」の項も参照)

つまり、鎌倉時代を含めた中世仏教の主軸は、「顕密仏教」(南部六州と平安二宗)であって、現在鎌倉仏教と言われるものは、周辺的存在であり、それらが社会的に影響力を持ったのは、戦国時代以降である。

旧仏教の「顕教仏教」側でも、華厳宗の明恵みょうえ凝然ぎょうねん律宗の忍性にんしょう俊芿しゅんじょう叡尊えいそんなどが、教理研究、社会救済事業、戒律復興などの活動をしている。

近年の鎌倉仏教研究は、このような事情から「顕密仏教」「権門体制」という捉え方を前提として進められている


ここで出てくる、律宗の忍性にんしょう叡尊えいそんは、確かに『日蓮 「闘う仏教者」の実像』に出てきたのを思い出した。権力者側から見れば忍性、叡尊が正統で日蓮のほうが異端な感じだったと思う。

『日蓮』の著者の松尾剛次も叡尊らを「私見では、いわば、もう一つの鎌倉新仏教教団と考えられる。」と言って、その再評価が必要だと論じていた。(つくジー)


ここで著者は、このよう社会や時代的基盤を重視した近年の研究の必要性を認めているが、

しかし、思想は個々の特殊な状況の反映であると同時に、思想それ自体とし相対的に独立し、時代を超えた普遍性を持つことを目指すものであり、そこに思想としての達成があるという見方もできるのではないだろうか。(抜粋)

と言っている。つまり、ある仏教者の思想を、日本のある時代、社会の反映として見るのではなく、インドから流れてきた大乗仏教という大きな視点のなかでその思想がどのような深まりを見せているのかを見ることも重要である。


ここで、言っていることは、要するに近年の鎌倉仏教研究のトレンドはもちろん知っているが、しかし、大乗仏教の大きな枠組みとして見たいので、ここでは、旧来の鎌倉仏教を取り扱いますよ!ってことだ・・・・・と思う。(つくジー)

1 鎌倉時代に新たに起こった仏教の特徴

この節では、まずは第四章、第五章、第六章で取り上げる鎌倉仏教について、その共通した特徴について解説している。

末法思想への対応

日本は一〇五二年に末法の世に入ったとされ、この末法の世にふさわしい教えが鎌倉時代に新たに登場した仏教にとって大きなテーマだった。

まず、仏教では、正法、像法、末法の3つの時代区分に分け、それぞれ

  • 正法:釈尊の死後、五百年or千年:仏の教え(教)、それに基づく修行(行)、修行による悟り(証)の三つが具わる世
  • 像法:正法後、五百年or千年:教と行はあるが、証が得られなくなった世
  • 末法:像法後、一万年:教のみ残るが、行も証も得られなくなる世

となる。この末法思想への対応は、鎌倉仏教でさまざまであった。

まず、浄土宗、浄土真宗、時宗は、末法思想を受け入れ、修行も悟りも不可能な時代では、阿弥陀仏の「念仏するすべての衆生を西方浄土に往生させ、そこで成仏させよう」という請願により救済されるとし、『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えるしかないとした。

日蓮宗も、末法思想を受け止め、『法華経』こそが末法の世を救う第一の経典として、『南無妙法蓮華経』という題目を唱えることを説いた。

禅宗の道元末法思想を否定する。座禅修行により「悟り」を顕現するという立場である。

天台本覚論との関係

「天台本覚論」は、中古天台で隆盛をみせた「衆生は本来的な「悟り」(本覚)が備わっているから、ありのままで悟った仏であり、改めて修行などする必要はない」という考え方である。これは大乗仏教の理論的究極とも絶対的一元論ともいわれる。

鎌倉仏教の祖師たちは、多くが比叡山で天台教学を学んでいるためこの天台本覚論も理解していたが、彼らはこのような本覚論とは一線を画していた

道元は、本来悟っているため修行は不要ということに疑問を起こして、比叡山を下って、座禅修行を始めた。最澄の原点に戻れと主張した日蓮は、ありのままを説く天台本覚論と厳しく対立し、修行実践として題目を説いた。法然親鸞の専修念仏の教えでは、衆生は自分自身では救われない「悪人」「罪悪深重しんじゅうの凡夫」である。その立場からは、天台本覚論とは相いれなかった。

易行性、選択性、民衆性という観点

鎌倉仏教の特徴易行いぎょう」性選択せんちゃく」性「民衆」性と説明される。つまり民衆でも近づきやすいように複雑な教えから単純な教えを選んで説いたという。つまり、念仏のみ、座禅のみ、題目のみという教えは、単純で民衆にも近づきやすい。

しかし、著者は、その教えを説く法然や親鸞、道元、日蓮、一遍などは、大乗仏教の経典を広く深く学んだうえでそのような主張をしていると、注意している。

彼らの念仏なり坐禅なり唱題なりの主張の背後には、大乗仏教の真髄を体得した上で築いた思想が存在しており、仏教思想としてアプローチする場合には、その背景まで含めて彼らの思想を総体として捉える必要がある。(抜粋)

親鸞は、真の意味での他力信仰への「信」は「難中の難」であると言ったように、それは単純であるからこそ、主体側の理解と覚悟厳しく問われるものである。

また、親鸞の『歎異抄』にみられる悪人正機説は、生存のために罪を造らざるを得ない武士や民衆の心をつかんだ。

末法の世の中で、生きるために殺生などの悪行を犯さざるを得ない人々の救いということが問題となってきた。(抜粋)

このような願望に答えるのが、法然・親鸞の専修念仏の教えであり、また日蓮の唱題の教えであった。

鎌倉時代の神仏習合

仏教は、アジアの国々でその土地の土着信仰と習合し広まっていった。日本も仏教伝来の当初は、土着の神との摩擦があった(ココ参照)が、日本の神々への信仰と仏への信仰が矛盾せずに重なり合うとする神仏習合が発達した。

平安時代には、神への菩薩号授与、日本の神をインドの仏が垂迹したととらえる本地垂迹ほんちすいじゃくが盛んにおこなわれた。

そして鎌倉時代になると神道でも、古代神話を本地垂迹の立場から解釈し直されて中世神話として蘇り、神仏習合が進行した。

このような神仏習合は鎌倉仏教にも影響を与えた。時宗の一遍いっぺんは、熊野権現(本地は阿弥陀仏)の神託を受けて、本格的な念仏布教を開始する。また、日蓮は『法華経』を中心とした大曼荼羅に、天照大神や八幡神はちまんしんを組み込み、神と仏の関係を追究した。しかし、親鸞は、神祇不拝しんぎふはいを称え、阿弥陀仏への絶対他力への信仰を強調した。


関連図書:松尾剛次 (著)  日蓮 「闘う仏教者」の実像』、中央公論新社(中公新書)、2023年

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