最澄の生涯と思想 — 最澄と空海(その1)
末木 文美士 『日本仏教再入門』より

Reading Journal 2nd

『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三章 最澄と空海 日本仏教の思想2(頼住光子) (その1)

今日から「第三章 最澄と空海」に入る。第三章では、平安仏教と呼ばれる最澄の天台宗と空海の真言宗について解説される。

第三章は、各節ごとに三つに分けてまとめるとする。まず“その1”の第1節「最澄の生涯と思想」では、最澄の生涯とその業績について、“その2”、第2節「空海の生涯」では、空海について、その「曼荼羅的思考」の特徴について、最後に“その3”第3節「空海の思想」では、その思想の中軸である「即身成仏」についてまとめる。それでは読み始めよう。

平安仏教の特徴

奈良時代三輪成実法相倶舎華厳などの南部六宗は、いずれも都を中心として栄えた。しかし、平安仏教と呼ばれる天台宗真言宗は、それぞれ比叡山高野山という深山を本拠地としている。

天台宗開祖最澄さいちょう真言宗開祖空海くうかいも、同時期に遣唐使に随行して中国に渡り、それぞれ天台宗真言密教を学んで帰国し、それを日本に根付かせたが、両者に共通するのは青年期に山林で修業し、弟子たちにも山での修行を課していたことである。これは、仏教伝来以前からの山岳信仰と仏教が習合を促し、日本の地に根差す足掛かりとなった

両者は山林修行を重んじているが、一方朝廷から保護を受け、鎮護国家や現世利益のための祈禱を仏教の大きな役割と認めていた

世俗を否定することなく仏教によって世俗世界を裏打ちすることを目指すのは、奈良仏教をはじめとして、日本仏教が入って来て以来の顕著な傾向であり、これは、日本仏教の潮流である中国仏教まで遡ることができよう。(抜粋)

また、両者は自身の修行の経験から、理論のみならず実践を重んじたのも共通している。彼らは、天台止観三密修行により、人間の意識の日常的限界を突破し、真理を直接体験することを目指した。しかし、それに留まらず、それらを通じて得られた悟りの智慧を基盤として、この世の苦しみを救うことを目指した

1 最澄の生涯と思想

山林修行と入唐

最澄は、七六七年に近江国滋賀郡古市郷に渡来系氏族の子として生まれた。一二歳の時に近江国分寺で出家、一九歳の時に東大寺戒壇で具足戒を受け正式な僧侶となる。しかし、その後通例と異なり本師の元に戻らず、比叡山に登り、十数年に渡り山林修行を続けた。

修行にあたって作成した願文の中で最澄は、「愚が中の極愚、おうの中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄」(愚者の中の愚者、狂人の中の狂人、煩悩にまみれた愚かな僧、最低の存在である最澄)と自己規定した上で、「無上第一義のために金剛不壊不退の心願を発す」(この上もなく優れた仏法のために金剛のように堅固な心願を発す)として「六根相似の位」(眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官から執着が無くなり仏と同様の境地に至ること)を達成するまでは山に籠もって修行を続け、もしその位を得たら、世俗に混じって迷える人々を悟りへと導こうという自利利他の誓願を立てた。(抜粋)

このような最澄の評判は宮中にも達し、政治に介入することを厭わない奈良仏教のあり方に批判的だった桓武かんむ天皇により最澄は、新しい平安京にふさわしい仏教界の新たなリーダーとして重用された。

最澄は、桓武天皇に願い出て、天台教学を興隆するために諸益僧しょやくそう還学生げんがくしょう(短期留学生)として、遣唐使に随行し入唐した。

最澄は、天台山湛然たんねんの弟子道邃どうずい行満天台教学を学んだ。そして、道邃からは大菩薩戒を受け、しゅくねんから順暁じゅんぎょうからは密教を相承した。これを「四種相承」と呼ぶ。

このうち、密教は不十分な相承であったため、帰国後、正式な灌頂を受けた空海の教えを受けることになった。

最澄滞在期間九ヵ月で帰路に就く。帰国当時、最長の最大の支持者だった桓武天皇が病床にあった。最澄は宮中で天皇の病気平穏の祈祷を行う。そして、最澄は勅によって高雄山で灌頂を行った(日本初の密教灌頂)

これらのことが物語っているように、平安時代の仏教は、奈良時代から引き続いて、その儀礼的呪術力によって、現世安穏を達成することが大いに期待されていた。特に、最澄や空海によって本格的に導入された密教の加持祈祷は、背後に壮大な思想体系の裏付けを持つ、儀礼の新奇さや荘厳さによって、天皇や貴族の心を捉えたのである。(抜粋)

天台宗の開創と空海との交流

最澄は帰国の翌年(八〇六)に、天台宗を新たな宗派として公認を求めて朝廷に働きかける。この時、年分度者の割り当て数(各宗の年間出家公認数)の変更を求めた。これはすぐに認められて、天台業二人(止観業:『摩訶止観』を読む:天台:一人、遮那業:『大日経』を読む:密教:一人)が割り当てられた。通例、これをもって日本天台宗の開宗とする。しかしその直後、後ろ盾であった桓武天皇が崩御し、最澄の将来に暗雲がかかった。

最澄は、密教を不十分な形でしか学ばなかったため、正式な灌頂を受けた空海の教えを受けることになった。最澄は空海に次々と経典を借り密教を学び、弟子の泰範たいはんらとともに、金剛灌頂と胎蔵界灌頂を受ける。最澄は最上位の伝法灌頂も受けたいと求めたが、空海はそれを許さなかった

天台宗の興隆のために密教を導入しようとする最澄と、密教こそがあらゆる仏教のうちで最高のものであると考える空海とでは、密教の位置づけが大きく異なっており、経論の貸借や弟子の泰範の帰属をめぐるトラブルも起こり、両者は絶交した。(抜粋)

三一権実論争と徳一、大乗戒壇の主張

その後の最澄の人生は、論争に明け暮れることになる。

法相宗の学僧の徳一とくいちと最澄は、一乗思想と三乗思想のどちらが真実か、という三一権実さんいちごんじつ論争が起こった。ここで三とは三乗、一とは一乗、権とはかり、実とは真実である。

まず三乗とは、声聞乗ょうもんじょう縁覚乗えんがくじょう菩薩乗ぼさつじょう、声聞と縁覚は小乗で、大乗(菩薩乗)からは利他に欠けると批判される。

天台宗の『法華経』によると、仏の教えは三乗に分かれているが、これは方便であり、真実の一乗(大乗)に最終的には帰する。そのため小乗である二乗の途も含めて、一切のものが救われる。これが最澄の立場である。

これに対して、南部六宗の中の法相学では、五性ごしょう(姓)(声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定性ふじょうしょう、無性)の格別かくべつを説く。そして、この中で声聞定性、縁覚定性、無性の者は、真実を悟れず、救われないとした。

この三乗と一乗における法相宗と天台宗の争いは、中国でも盛んにおこなわれていて、徳一と最澄はそれを日本で再現したことになる。この争いは結局決着がつかなかった。

最澄は、この論争を通じて、南部六宗と天台宗との救済観の違いを痛感し、次の具足戒破棄による奈良仏教徒との決別と単受大乗戒の主張につながる

ここで著者は、次節の空海もあらゆるものが救われるという立場を取っていて、生きとし生けるものすべてが救われるというのが平安仏教の特徴であると指摘している。

当時は、大乗仏教においても、正式な僧侶となるには、小乗仏教以来の具足戒を一〇人の僧侶の前で誓うことになっていた。しかし、八一八年に最澄は、具足戒の破棄を宣言し、大乗戒壇を設立した。それによれば、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、一二年間山中で修行することを義務づけられていた。

『顕戒論』と『内証仏法相承血脈譜』

大乗仏教が成立すると、大乗の精神に基づいた大乗戒も考案された。しかし、それまでの大乗戒は、あくまで大乗戒と小乗戒を同時に受ける大小兼受であった。大乗戒には、具足戒(小乗戒)のような修行生活の細かい規定がなく、大乗戒だけでは禁欲的修行生活を規制できなかったからである。

そのなかで、最澄の単受大乗戒は、具足戒を受けずに大乗戒だけ受ければよいとしたもので、他の仏教国にはない異例のものだった。

日本では、この後、単受大乗戒が天台宗のみならず広まっていった。その意味で、最澄は日本仏教の方向性を決めたといえる。(抜粋)

この単受大乗戒は、当初一二年の籠山修行とセットであったため、破戒による堕落した行いが目立つなどの問題が起こらなかったが、後に大きな弊害となる。

この単受大乗戒は、南部仏教から批判される。最澄は、単受大乗戒の正当性を宣揚する『顕戒論』を執筆し、『内証仏法相承血脈譜』を著し、両書を嵯峨天皇に献上する。この『内証仏法相承血脈譜』において最澄は、「達磨大師付法」(禅)、「天台法華宗」(円教)、「天台円教菩薩戒」(大乗戒)、「胎蔵金剛両曼荼羅」「雑曼荼羅」(密教)のそれぞれについて、三国(天竺・震旦・日本)に渡る血脈譜(系図)を明示し、これにより、円・密・禅・戒の四種の法門が、インド、中国、日本を経て最澄まで伝えられたことを示した

八二二年、このような激しい論争の中、最澄は比叡山の中道院で入滅した。没後七日になって、生涯の悲願であった大乗戒壇の設立が勅許され、比叡山中に今でも堂宇を構える戒壇院が建立されるに至ったのである。(抜粋)

天台宗の展開

最澄の後半生は論争に始終したため、その著作も基本的に論争の書ばかりで、深い思索を体系的に結実させた著作はない。

しかし、生きとし生けるものの救済を説く『法華経』の重視にしても、単受大乗戒の主張にしても、最澄が据えたいしずえは、その後の日本仏教の展開にとって決定的であった。(抜粋)

また、最澄が教義体系を未完成に残したことは、その後の天台宗の展開にプラスに働いた。これは、空海が真言宗の体系を完成させ、その後の展開があまりなかったことと対照的である。

天台宗は「四種相承」の上に、四種三昧の一環として念仏などを取り入れ、『法華経』に基づく天台教学、密教(台密だいみつ)、禅定ぜんじょうの修行、大乗菩薩戒、念仏などを有機的に統合した総合的仏教に発展する。

また法然、親鸞、道元、日蓮などの鎌倉仏教の祖師たちは青春時代に比叡山で勉学と修行を行い、その学問的伝統の母胎として、独自の仏教を築く。


最初にも書いたが司馬遼太郎の『空海の風景』を読んでいるので、空海との絡みの部分はだいたい知っていた。しかし『空海の風景』では、主人公が空海なので、どちらかというと最澄はネガティブな扱いであった。ここを読んでみて仏教での最澄の位置やその功績などがよく分かった気がする。

それから、はっきりとした記憶でないが、比叡山では、法華経をはじめいろいろな仏教の分野が学べるというような事をテレビ番組の中で聞いたような気がする。それは、最澄が広範囲な仏教を導入し天台宗が総合的な仏教に発展したからなんだろう、と納得した。(つくジー)


関連図書:司馬遼太郎(著)『空海の風景 新版』(上)(下)、中央公論新社、2024年

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